砂嵐の向こうのバックアップ

──平成0x29A年02月16日 06:00

 午前六時。枕元の液晶クロックが、電子音ではなく、録音された古いベルの音を鳴らした。平成二十年頃の目覚まし時計を模したプラスチックの筐体が、震えながら畳の上に転がっている。

「……遥斗、起きて。同期リクエストが来てるわよ」

 視界の右隅、網膜投影の通知ウィンドウが点滅している。耳元で囁くのは、五年前に交通事故で亡くなった姉、結衣の声だ。彼女は今、私専用の近親人格エージェントとして、私の脳内チップに常駐している。

「おはよう、結衣。まだ眠いよ。実習キャンプの朝は早すぎる」
「文句言わないの。今日は『平成後期・家庭内娯楽学』の最終試験でしょ? ほら、早く共有型バッテリーを繋いで。この部屋、ドクトリンの電力供給が不安定なんだから」

 私は重い体を引きずり出し、壁のコンセントに差し込まれた黄色い共有型バッテリーを引き抜いた。それを実習用の重厚な「スーパーファミコン」の側面にある、不自然な拡張ポートに叩き込む。本来は存在しないはずのインターフェースだが、この世界の『平成エミュ』は、時折こうした技術の継ぎ接ぎを平然と要求してくる。

 実習用のブラウン管テレビが、キーンという高周波を立てて目覚めた。画面に映るのは、不気味なほど鮮明な砂嵐。私は棚から、ラベルの剥げかけたVHSテープを取り出した。中身は『一九九〇年代・トレンディドラマ集』の断片だ。これをデッキに差し込み、物理的な磁気記録と、私の個人データを同期させなければならない。それが今日の課題だ。

 だが、デッキがテープを飲み込んだ瞬間、視界の通知が真っ赤に染まった。

【警告:第0xCC1内閣ユニットより通知。党ドクトリン・アルゴリズムとの整合性に致命的な乖離を検出。個人データの再同期を一時停止します】

「嘘でしょ……結衣、これどういうこと?」
「待って、解析するわ。……ああ、もう! 昨夜の閣議決定で、一部の文化資産のハッシュ値が変更されたみたい。あんたが昨日まで積み上げた習熟スコアが、『現行制度との差分』として認識されなくなってる。このままだと、あんたのこの三日間の記憶ログごと、サーバーからパージされるわよ」

 結衣の声が焦りに満ちる。パージ。それはこの「平成」を模倣した平穏な生活から、私の存在証明が削り取られることを意味する。

「どうすればいい!」
「アナログで逃がすしかないわ。遥斗、そのスーファミのコントローラーに付いてる近傍通信タグを、テレビの横のセンサーに押し当てて! 私の構成データを一時的にVHSの磁気領域に暗号化して流し込む。アルゴリズムが再計算を終えるまで、磁気テープの中に隠れるのよ」

 私は言われるがまま、グレーのコントローラーをテレビに押し付けた。タグが反応し、ピピッと乾いた音が響く。画面の砂嵐が激しく波打ち、一瞬だけ、見たこともない二十代くらいの女性が泣きながら電話をかける映像が混じった。

「結衣? 大丈夫か?」
「……ん、……なんとか。でも、データの転送率が低すぎる。共有型バッテリーの残量が足りないわ。もっと、私を強く押し付けて」

 私はコントローラーを握りしめ、冷たいテレビの筐体に押し当て続けた。指先が震える。窓の外からは、文教ブロックのスピーカーが流す「ラジオ体操」のメロディが聞こえ始めていた。誰もいない校庭で、無数の無人ドローンが規則正しく昇降しているのが見える。

 数分後、画面の赤色が消え、穏やかな「同期完了」の文字が浮かんだ。党のアルゴリズムが、私のデータを「無害なノイズ」として再定義し、受け入れたのだ。

「……ふぅ。危なかった。遥斗、あんた本当に運がいいんだから」

 結衣の声が戻ってきた。少しノイズが混じっているが、いつもの彼女だ。私はへなへなと畳に座り込んだ。共有型バッテリーは空になり、スーファミの電源ランプが消えた。

「ねえ、結衣」
「なあに?」
「さっき、データが消えそうになったとき、変な感じがしたんだ。君がいなくなるのが、死ぬときより怖かった」
「何言ってるのよ。私はプログラムよ。あんたの脳が作り出してる幻みたいなものなんだから」
「違うよ。プログラムでも、幻でもいい」

 私は、まだ温かいテレビの画面に触れた。そこには、磁気テープの中に一時的に避難していた、姉の断片が残っているような気がした。

「……結衣。僕、実習が終わったら、君の倫理検査の更新リクエストを出すよ。党のドクトリンを少しだけ書き換えて、君の『人格の揺らぎ』を、公式に承認させる。五分間の総理権限が回ってきたら、必ずやる」

 結衣はしばらく黙っていた。やがて、網膜投影の端で、小さな絵文字の笑顔が揺れた。

「……バカね。そんなことに権限使ったら、次の選挙で支持率ゼロになっちゃうわよ。でも――」

 彼女の声が、少しだけ湿り気を帯びた。

「ありがとう。私も、あんたのバックアップでいられて、ちょっとだけ嬉しいかも」

 窓の外では、平成の朝を模した偽物の太陽が、オレンジ色の光を街に振りまき始めていた。