防災倉庫のFAX、午後四時の任命

──平成0x29A年02月18日 16:10

 防災倉庫の鉄扉を開けた瞬間、埃とビニールシートの匂いが鼻を突いた。

 私は懐中電灯で棚を照らしながら、腰に下げたeペーパー端末をめくった。第11居住ブロック防災訓練・備蓄品点検チェックリスト。二百三十七項目。午後四時から開始、完了見込みは十八時。

「毛布、アルミ八十枚。数えて」

 耳の奥で叔母の声がした。エージェントの池永節子——母の姉で、三年前に肺炎で亡くなった。生前はこの居住ブロックの自治委員をやっていて、備蓄倉庫の鍵の場所まで覚えている。

「八十二枚あります。二枚超過」

「超過は差分出しときな。後で面倒になるから」

 eペーパーに「毛布+2」と走り書きして次の棚へ進む。奥の壁際に、古い複合機——というかFAX機が鎮座していた。受話器が黄ばんでいる。感熱紙のロールが三本、脇に積んであった。

「これ、まだ通電してるんですか」

「してるよ。去年の台風のとき、光回線が全部落ちてFAXだけ生き残った。あんた知らないでしょ、災害時はアナログが最後の砦」

 叔母は得意げだった。FAX機のトレイには一枚、紙が出ていた。印字がかすれている。「第11居住ブロック宛——避難所開設基準の改定案について、ご確認ください」。日付は三ヶ月前。誰も取りに来なかったらしい。

 私はそれを畳んでポケットに入れた。

 棚の下段に非常用ラジオが並んでいた。その隣に、透明なジップ袋に入った銀色の箱。iPod classic。液晶に細かい傷。裏面に「池永」と油性ペンで書いてある。

「……叔母さん、これ」

 沈黙が二秒あった。

「ああ、それ私のだわ。震災のとき寄付したの。音楽聴けるからって。まだあったんだね」

 電源を入れてみた。死んでいた。当然だろう。私はそれも袋ごと棚に戻した。

 その時、eペーパーの上端が赤く点滅した。

 ──任命通知。第0x7A2F1内閣ユニット 内閣総理大臣 池永 奏太。任期:16:10:00〜16:15:00。

「来たね」と叔母が言った。慣れた口調だった。

 閣議リクエストが三件、端末に流れ込んできた。一件目、第11居住ブロック避難所開設基準の改定——さっきFAXで出ていたやつと同じ内容だった。差分断片を開く。「開設判定を自動気象連動に変更」。

 叔母のエージェント補佐が差分を走査し、党ドクトリン署名との整合を検証する。署名アルゴリズムのハッシュ値が端末の隅に表示された。もう半分くらいの人間が鍵構造を知っている、あの署名だ。

「整合してる。形式上は通るよ」

 二件目は他ブロックの排水管規格変更。三件目は生成AI校正ツールの公教育導入に関する差分だった。「作文授業における生成AI校正の段階的導入」——添付資料に、児童の作文が赤字だらけで返ってくるサンプル画像があった。

「これ、子供かわいそうだね」と叔母が言った。

「でも判断基準はドクトリン整合だけでしょう」

「そうだけどさ」

 私は三件とも承認した。防災倉庫の埃っぽい空気の中で、五分が過ぎた。端末の赤い点滅が消え、「任期終了」の灰色の文字だけが残った。

 チェックリストに戻る。非常食の棚。乾パンの缶。賞味期限を一つずつ読み上げていく。叔母が数を復唱する。

 百三十七項目目あたりで、ふと手が止まった。

 さっきのFAX——三ヶ月間ここに放置されていた紙と、私がたった今承認した差分は、同じものだった。紙はずっとここにあった。誰かが読んで、手続きに載せて、巡り巡って私の五分間に届いた。

 ポケットからかすれた感熱紙を出した。指先にまだ温もりがあるような気がしたのは、倉庫の暖房が入っていないせいだろう。

「百三十八。缶詰、ツナ。四十八個」

 叔母の声に従って、私は数え始めた。紙はポケットに戻した。捨てる気にはならなかった。