終点の匂いと、遅れてくる許可
──平成0x29A年08月23日 19:10
平成0x29A年08月23日 19:10。
新橋の下をくぐる高架の影が、夕立の残り水を黒くしている。私は臨港バスの車庫で、今夜の「代行運行」を待たされていた。待機線に並ぶ車体は、どれも同じラッピング――平成の観光地っぽい虹と、やたら丸いフォント。なのに足元では、物流用の群ロボットが、カタカタと昭和みたいな音を立てて走り回っている。
「また止まってる」
耳の奥で、父の声がした。
私のエージェントは父だ。享年五十五。高速の合流で逝った。生きてる頃より、いまのほうが配車にうるさい。
止まっているのは運行じゃない。合意形成だ。
今夜の臨港線は、臨時の迂回ルートを一個だけ足したい。湾岸の歩道橋が落ちかけているからだ。ところが「差分断片」の承認が降りない。端末には、内閣ユニットのレビュー待ちが延々と積まれていく。どれも五分の総理が捌くはずなのに、肝心の署名欄が灰色のまま、点滅をやめない。
父が言う。
「党のやつ、また鍵の形が変わったんじゃないのか」
私は運行管理補助だけど、こういうときは倉庫側の紙も触る。群ロボットが運んでくる保管箱の上に、ビーコンがちいさく光っていた。位置情報ビーコン。積載状況と車両の紐づけを、勝手にやってくれるはずのやつ。
――はず、だった。
ビーコンが吐く座標が、三十メートルずれている。地図アプリはARで「ここに停車」と矢印を出すのに、現実の停車線は空だ。群ロボットは矢印を信じ、空の停車線に向かって整列し、また戻ってくる。いったりきたり。まるで犬の散歩のように。
「平成の地図はな、駅前に吸い寄せられるんだよ」
父が訳の分からないことを言う。
私は胸ポケットからガラケーを出し、iモード風の画面で運行台帳を開く。なのに、台帳の下にはサブスクの広告が浮く。「今月の懐メロ聴き放題」。通知音は、妙に古いピコピコ。
ピコピコの元は、待機室のテレビだった。
誰かがファミコンを繋いでいる。カセットは灰色で、ラベルが剥げている。『ロードランナー』。
「こんなときに遊ぶなよ」
言いながら、私は画面の穴を見てしまう。ブロックを掘って、敵を落として、また掘る。単純で、遅れない世界。
群ロボットがまた、カタカタと通路を塞いだ。私はビーコンを一個ひっ掴み、手で持ったまま歩いてみる。ビーコンが私の手首の動きに合わせて点滅し、端末の地図の矢印もふらつく。
「それ、現場で直すやつじゃない」
父が言う。
「直らないから、現場で直すんだよ」
私は答える。自分でも、どこかで聞いた言い方だと思った。
車庫の端に、古い窓口がある。現金精算が残っていた頃の名残で、壁に小さな投入口がついている。そこに、忘れ物の箱が積まれていた。
一番上に、写真の現像袋があった。
白い紙袋に、店名の青いスタンプ。角が湿気でふやけ、指に薬品みたいな匂いがつく。袋の口は、ホチキスで留めたまま。
「開けるなよ」
父が強く言う。
私は開けない。ただ、袋の表に手書きで書かれた名前を読む。『ヒロセ』。下に、受け取り日時。平成二十年、みたいな数字が混ざっている。ありえないのに、ありえるように印字されている。
端末が震えた。
【第402ヘゲモニー期・差分断片:臨港線迂回ルート】
【内閣ユニット#0x7B19C… レビュー中】
【署名検証:待機】
待機、待機、待機。
私は現像袋を忘れ物の棚に戻し、投入口の横の古い金属プレートを撫でた。そこに、昔の受付番号の傷が残っている。人が列を作って、順番を待っていた時代の傷。
「合意が遅れてると、街が止まる」
父が、少しだけ静かに言う。
「街じゃない。私たちが止まる」
そのとき、ビーコンが一斉に白く点滅した。ずれた座標が、ふっと正しい停車線に吸い付く。群ロボットたちが、今度は迷わず箱を運び始める。カタカタという音が、流れに変わる。
端末の灰色が、緑に変わった。
【署名検証:通過】
【迂回ルート反映:19:12】
たった二分の遅れ。
でも、その二分の間に、私は現像袋の匂いを嗅ぎ、カセットのピコピコを聞き、ビーコンを握りしめていた。
父が言う。
「ほらな。動いた」
私はエンジンをかける前に、ふと、思った。
この二分を待つあいだ、誰がどこで総理だったんだろう、と。
答えは出ない。
ただ、写真の現像袋の表にあった、ありえない日付だけが、手の匂いとして残った。
私はハンドルを握る。
発車ベルは、平成のまま、少しだけ遅れて鳴った。