着メロの間に、借り手の署名
──平成0x29A年09月10日 19:20
平成0x29A年09月10日、19時20分。
第2金融ブロックの信用契約審査室は、夜でもぴりぴりとした静寂に包まれている。
俺の脳内エージェント、じいさんの雄三が「遼、集中しろ。今日の案件は微妙だぞ」と囁いた。脳波UIを通じて送られてくる、少し鼻にかかった声は、生前と全く変わらない。
端末には、自動審査をパスしたはずの住宅ローン案件が赤く点滅している。通常ならそのまま承認され、ブロックチェーンに刻まれるはずが、なぜか「内閣ユニット最終承認待ち」のステータスだ。
「これはまた、面倒なことになったな」と俺は独りごちた。
「内閣ユニットのランダム承認だろ? だが、この案件はなぜだ?」じいさんが首を傾げる。元地方銀行の融資担当だったじいさんは、党ドクトリンによる自動審査システムが導入されてからも、人間的な勘というものを捨てきれずにいた。「昔なら、審査部長の印鑑一つで済んだもんだがな」
俺のスマホが、突然「Get Wild」の着メロを鳴らした。昔の刑事ドラマの主題歌らしい。平成エミュの文化様式の一つで、ランダムに割り当てられる。耳障りな電子音に、思わず眉をひそめた。共有型バッテリーの充電が残り少ない。今日はもう帰っていい時間なのに。
「緊急通知です。第0x29A-402-1287番内閣ユニットより、政策変更リクエストに関するレビュー要請」と、脳波UIにシステムの定型文が流れる。今回のランダム内閣総理大臣からのリクエストだ。
「はは、また『差分断片』か」俺は思わず苦笑した。最近、こういった「現行制度との差分断片」が多くなっている。党ドクトリンのアルゴリズムが半ば公然と解読されているせいか、ランダム総理大臣が個人的な意見を紛れ込ませるケースが増えていた。
今回のリクエスト内容はこうだ。「住宅ローン契約者の『飼い犬の名前を、契約書に自筆で追記する権利』を承認せよ」。
「馬鹿げている」とじいさんが呆れた声を出す。「そんなものを承認したら、契約書の整合性がどうなる? 党のドクトリンにも反するだろう」
俺も同感だ。しかし、このリクエストが通らないと、その契約者のローン承認は永遠に宙に浮くことになる。しかも、現行のドクトリンアルゴリズムは、この手の「感情的な差分」を非承認にするロジックが曖昧になってきている。
俺は端末を凝視した。内閣総理大臣の任期は5分。その間に承認か非承認かを決めなければならない。残り時間は30秒。
「非承認にするべきだ、遼!」じいさんが焦る。俺もそう思っていた。だが、指先が動かない。こんな些細なことで、誰かの生活が滞るのか?
残り時間1秒。結局、判断は下されなかった。システムは自動的に「保留」ステータスで次の内閣ユニットに引き継いだ。ホッとすると同時に、少しの罪悪感が胸をよぎる。
その直後、今度は「TRAIN-TRAIN」の着メロが鳴った。また別のランダム総理大臣が任命された証拠だ。脳波UIに新しいレビュー要請が届く。
「先の内閣ユニットから引き継ぎ。住宅ローン契約者の『飼い犬の名前を、契約書に自筆で追記する権利』について、速やかに承認せよ」
俺は目を疑った。先ほどのリクエストが、そのまま承認されたのだ。しかも「速やかに」とまで付け加えられている。
「何がどうなってるんだ?」じいさんが狼狽している。
システムログを辿ると、新しい総理大臣が追加した「承認理由」が記されていた。
『我が家の愛犬ポチが先月他界した。せめて名前だけでも、永遠に残したいと願う気持ち、痛いほどわかる。承認』
俺は、端末の前で思わず吹き出してしまった。じいさんも、脳内で「馬鹿な……」と呟いた後、長い沈黙に陥った。
ポケットに入れた家の鍵の束が、カチャリと音を立てた。今日もまた、アルゴリズムの隙間から、平成の情緒が顔を覗かせた夜だった。