更新保留:母の小言と1.44MB
──平成0x29A年01月09日 15:40
コンビニの自動ドアが開くと、一月九日の乾いた風が吹き込んだ。店内に流れる安っぽいジャズアレンジのJ-POPが、暖房の効いた空気の中でぼんやりと反響している。
私は複合機の前に立ち、硬貨投入口に百円玉を押し込んだ。キャッシュレス決済が主流のはずなのに、公的な申請書類のコピーだけは、なぜか物理的な硬貨しか受け付けない。これもまた、古き良き時代を再現するための「平成エミュレーター」の仕様なのだろうか。
『舞、領収書ボタン忘れないでね。経費で落ちるんだから』
骨伝導イヤホンから、母さんの声が響く。死んでからもう三年になるのに、エージェントとして再構築された母さんは、生前と変わらず細かいことにうるさい。
「わかってるよ。今、押そうと思ったところ」
私は小さく呟いて、コピー機の緑色のスタートボタンを押した。眩しい光がスリットの向こうを走る。感光ドラムの回る重たい駆動音とともに、温かいA4用紙が吐き出された。
『倫理検査の同意書、これで三枚目ね。まったく、なんでデジタル署名じゃ駄目なのかしら』
「手書きの署名じゃないと、人格更新の承認が下りないんだって」
吐き出された紙には、「人格エージェント定期倫理検査申請書」という明朝体の文字が並んでいる。母さんの人格プログラムにバグや過度な偏りがないか、国の基準でチェックするための手続きだ。
コンビニを出て、職場である「第3スキル再開発センター」へ向かう。歩道では円盤型のロボ清掃員が、ウィーンというモーター音を立てて枯れ葉を吸い込んでいた。その横をすり抜け、センターの入り口にあるバイオメトリック改札に手のひらをかざす。
『ピッ、認証しました』
無機質な合成音声と共にゲートが開く。母さんの声とは明らかに違う、温度のない音だ。
実習室に入ると、午後の講義が終わった直後の熱気が残っていた。再就職を目指す訓練生たちが帰り支度をしている。
「井上先生、これ、課題の提出です」
年配の訓練生が、プラスチックのケースを差し出した。中には黒い正方形のメディア――3.5インチフロッピーディスクが入っている。
「ありがとうございます。また明日確認しておきますね」
私はそれを受け取り、積み上げられたFDの山に重ねた。容量わずか1.44MB。この中に、彼らが書いた最新鋭の量子暗号コードが収められている。外側はレトロでも、中身は最先端。この世界の歪な日常そのものだ。
時計を見る。一五時三九分。
『さて、そろそろ時間ね』
母さんの声が、少しだけ改まったトーンになる。
『検査中はオフラインになるから。代理エージェントの設定、ちゃんと「標準」にしてある?』
「うん。……ねえ、母さん」
『何? 寂しいの?』
「まさか。静かになって仕事が捗るよ」
『はいはい、強がっちゃって。夕飯、コンビニ弁当ばかりじゃ駄目よ。野菜ジュースも買いなさい』
それが最期の言葉だった。
一五時四〇分。
プツン、という電子的なノイズの後、イヤホンの中が一度無音になった。視界の端に表示されていた母さんのアイコンがグレーアウトし、「SYSTEM: Agent Maintenance Mode」の文字が浮かぶ。
五秒ほどの沈黙。
『あー、テステス。代理エージェント、起動しました。ユーザーID: 井上舞様。本日の業務予定を確認しますか?』
聞こえてきたのは、若くハキハキとした、けれどどこかよそよそしい女性の声だった。
「……ううん、大丈夫。とりあえず待機してて」
『承知しました。通知レベルを最小に設定します』
代理エージェントは余計なことを言わない。小言も言わないし、領収書の心配もしない。それは確かに効率的で、静かで、快適なはずだった。
私は手元のフロッピーディスクを一枚手に取り、ドライブに挿入した。カシャッ、ジー、という読み込み音が響く。
ふと、さっきコピーしたばかりの申請書が目に入った。まだ微かに温かいその紙からは、トナーの独特な匂いがする。
母さんの小言は、このトナーの匂いや、フロッピーの回転音のようなものだったのかもしれない。なくても機能するけれど、それがないと、世界はあまりにツルツルとしていて、取っ掛かりがない。
『一六時より、職員会議が予定されています』
代理エージェントが事務的に告げる。
「わかってる」
私は小さく答えて、冷たくなったコピー用紙をクリアファイルにしまった。検査が終わるまでの一週間、この静けさに耐えられるだろうか。私は苦笑しながら、読み込みの終わった画面に向き直った。