染料の鮮度

──平成0x29A年 日時不明

朝九時。私は紡績工場の検査室にいる。

顔料管理システムのディスプレイはiモード端末を改造したもので、画面は小さく、タッチペンで操作する。その横には、父が使っていた時代の色見本帳が積み重ねられている。父・吉田隆介は、この工場の技師長だった。今は、私の腕に巻いたPHSの中にいる。

「今日の第0x7A2F3ユニットからの政策変更リクエストが来たよ」

PHSが震えた。父の声。声というより、文字が音声合成されたものだが、イントネーションはたしかに父だ。

「もう?」

リクエストを確認する。ディスプレイに公式フォーマットで降りてきた。内容は「天然染料の流通規制の廃止」。現在、我が国の染料産業は、五十年前の「平成的基準」をエミュレートしている。その時代、合成顔料と天然染料は共存していた。今は合成顔料が主流だが、どういうわけか、ドクトリンが「共存状態の維持」を指示し続けている。

このリクエストが承認されれば、天然染料の規制が消える。私たちの工場は合成のみ。天然に転換すれば、設備投資が必要だ。

「どう思う?」

父のエージェントが応答するまで、数秒の沈黙がある。処理時間だ。最近、父の返答が遅くなっている。倫理検査が近いのかもしれない。

「規制廃止は、市場の選択肢を増やす。悪くない」

机の上のiモード端末で、レビュー画面を開く。承認か非承認か。ここに判子を押す形で、ドクトリン署名のための暗号ハッシュを送信する。

その時、父のエージェントが、いつもと異なる速度で話しかけてきた。

「吉田、これ、おかしい」

「何が」

「天然染料のリクエストが、同時に十三のユニットから来てる。パターンが全部同じ」

私は手を止めた。

PHSのログを確認する。確かに。第0x7A2F3、第0x5B1E4、第0x9C7A1——全部、同じ文面。同じ根拠。同じ署名形式。

これは、ドクトリンアルゴリズムの、いや、党の中枢の「想定」が、複数の内閣ユニットに並行配信されたという意味だ。ふつう、各ユニットは独立しているはずなのに。

「これ、ドクトリンの末期症状じゃないか」

父のエージェントが言う。

「何言ってる。ドクトリンは神聖だ」

「吉田、おれの時代、こんなことなかった。五十年前でも、こんなバグなかった」

PHSが、また震えた。父のエージェントの倫理検査通知だった。

「あ」

「わかった。すまん。あとは汎用代理エージェント二号だ」

父の声が消える。

iモード端末のディスプレイに、代理エージェント二号が現れた。個性のない、均一な応答フォーマット。

代理エージェントは、リクエストの承認を促す。判子を押せと。

私は、十三のユニットからの同一リクエストを眺めた。そしてゆっくり、ディスプレイの承認ボタンを押した。

画面に、ドクトリン署名が降りてくる。

親父の声は、戻ってこないだろう。倫理検査は平均で三時間。その間、汎用代理エージェントが私を補佐する。個性のない、完璧な補佐。

色見本帳を手に取った。父が使っていた、天然染料のサンプル。五十年物だ。紙は黄ばみ、色は褪せている。

でも、なぜか、もう一度必要になるような気がした。