白衣の誤訳、保留される夜
──平成0x29A年 日時不明
俺の名前は森岡 誠。41歳。第6医療ブロックの夜勤看護師だ。
勤め先は「第6医療ブロック慢性期療養施設」。要は、家に帰れない老人と、行き場のない人格データを預かる施設だ。夜勤は静かでいい。昼間の喧騒がない分、自分の頭で考えられる。
ただ、今夜は少し違った。
「森岡さん、ちょっと来てもらえますか」
声をかけてきたのは、事務の新人、石川だ。彼女の顔には困惑が張りついている。俺は点滴の残量を確認してから、ナースステーションへ向かった。
ステーションの片隅には、古いスーファミが置いてある。誰が持ち込んだのか知らないが、夜勤の暇つぶしに使われている。今夜も誰かがドラクエⅢをやりっぱなしにしていた。画面には「ぼうけんのしょ2ばん」の文字が光っている。
「どうした?」
石川は端末を指さした。ホログラム掲示が青白く浮かび上がっている。町内会掲示板の共有通知だった。
「これ、患者さんの遺伝子ネットワーク通知なんですけど……」
俺は画面を覗き込む。表示されているのは、308号室の入居者、田辺シゲさん、83歳の情報だ。彼女は三年前から寝たきりで、意識もほとんどない。だが、遺伝子ネットワークには登録されている。薄く広がった皇室遺伝子の末端ノードの一人だ。
通知内容はこうだった。
『第0xA4F12内閣ユニットより:遺伝子ネットワーク再編成に伴う個体登録状態の一時保留を申請します。対象個体ID: 6-308-TB-Shige。承認/非承認の判断を求めます』
俺の脳内エージェントが、すぐに反応した。
「誠、これは『保留』じゃない。実質的な削除申請だ」
エージェントの声は、兄貴のものだ。森岡 剛。享年37。肺がんで逝った。生前は医療事務をやっていて、制度の裏まで知り尽くしていた男だ。
「削除……つまり、田辺さんを遺伝子ネットワークから外すってことか?」
「ああ。形式上は『保留』だが、再登録される保証はない。つまり、国のシステム上、存在しなかったことになる」
俺は息を吐いた。石川が不安そうに俺を見ている。
「で、どうすればいいんですか?」
「承認か非承認を選ぶだけだ。俺たちには裁量がある」
俺は端末に手を伸ばそうとした。その時、エージェントが割り込んできた。
「待て、誠。今、俺は法定倫理検査の期間中だ。代理エージェントが補佐している」
そういえば、先週から兄貴の声が少し硬かった。倫理検査は年一回、全エージェントに義務付けられている。その間は、暫定の代理エージェントが肩代わりする。
「代理エージェント、判断を補佐してくれ」
「了解しました」
声が変わった。無機質で、抑揚がない。
「本件は、遺伝子ネットワーク再編成の一環です。対象個体の生命維持には影響しません。承認を推奨します」
俺は眉をひそめた。
「生命維持には影響しない? それだけか?」
「はい。医療上のリスクはゼロです」
石川が小さく息を呑んだ。俺も違和感を覚えた。
「おい、待て。遺伝子ネットワークから外れるってことは、田辺さんが国のシステム上、存在しなくなるってことだろ? それって問題じゃないのか?」
「問題ではありません。個体の生存には影響しません」
代理エージェントは繰り返した。俺は舌打ちした。兄貴なら、こんな言い方はしない。もっと人間的な言葉を選ぶはずだ。
「石川、これ、承認したらどうなる?」
「わかりません……でも、遺伝子ネットワークから外れたら、田辺さんの医療費の補助も止まるかもしれません」
「補助が止まったら?」
「施設から出て行ってもらうしか……」
俺は端末を睨んだ。承認ボタンと非承認ボタンが、青と赤で並んでいる。
代理エージェントが再び告げた。
「繰り返します。承認を推奨します。党ドクトリン署名との整合性が確認されています」
党ドクトリン署名。俺も知っている。あの暗号アルゴリズムは、もう半ば形骸化している。解読されているという噂も聞く。だが、それでもシステムは回り続けている。
俺は非承認ボタンに手を伸ばした。
「誠、待て」
声が変わった。兄貴の声だ。
「兄貴?」
「代理エージェントが誤訳している。『保留』は『削除』じゃない。正確には『再評価待ち』だ。ただし、再評価が行われる保証はない。つまり……」
「つまり?」
「田辺さんは、宙ぶらりんになる。存在するけど、存在しないことになる」
俺は息を呑んだ。石川も黙っている。
兄貴の声が続いた。
「非承認を選んでも、別の内閣ユニットが承認するかもしれない。承認しても、誰も気づかないかもしれない。お前の判断は、ほとんど意味を持たない」
「じゃあ、どうすればいい?」
「好きにしろ。ただし、記録には残る」
俺は非承認ボタンを押した。
画面が一瞬、赤く光った。『非承認を記録しました』というメッセージが表示され、すぐに消えた。
石川がほっとした顔をした。
「これで、大丈夫ですよね?」
俺は答えなかった。
ナースステーションの隅で、スーファミの画面が光っている。ドラクエの勇者が、洞窟の入り口で立ち止まっていた。
遺伝子ネットワーク通知は、町内会掲示板の隅に、まだ青白く光っている。誰が読むのか、誰が気にするのか、わからない。
俺は点滴ラウンドに戻った。308号室の前で立ち止まる。田辺シゲさんは、静かに眠っている。呼吸は安定している。
彼女が「保留」されているのか、されていないのか、もう俺にはわからない。
ただ、記録には残った。俺が非承認を選んだという記録が。
それが何を意味するのかは、誰も教えてくれない。