ノイズの解読、あるいは七月の青い感熱紙

──平成0x29A年07月10日 23:40

 広域技能振興センターの第三実習室は、深夜の熱を逃がしきれずにいた。空調は「平成二十年代・節電モード」をエミュレートしており、湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつく。

「湊、また弾かれたわよ。根性が足りないんじゃないの」

 耳元の自動翻訳イヤホンから、祖母の佳代さんの声が響く。彼女のエージェント・プログラムは、時折、解析不能な古いスラングを混ぜてくる。イヤホンが『根性:精神的負荷耐性の不足』と無機質に補足した。

「根性の問題じゃないよ、佳代さん。党ドクトリンの署名アルゴリズムが、このFAX機の走査線ノイズを『非正規の改ざん』って判定し続けてるんだ」

 僕は机の上に置かれた共有型バッテリーを、古いブラザー製のFAX機に繋ぎ直した。この「アナログ通信復元科」の卒業課題は、紙の書類を光学スキャンし、第0x88A2内閣ユニットへ政策変更リクエストを「受理」させることだ。リクエストの内容は、センター裏の公園の街灯をLEDから水銀灯へ——これも平成エミュレートの一環だ——戻すという、どうでもいい端分断片である。

 時計は23時40分を回った。手元の「DPE」と印字された黄色い写真の現像袋から、教材用のネガフィルムを取り出す。この銀塩の粒子が持つ不規則なノイズこそが、党のガチガチな暗号署名を「揺らがせる」鍵になるはずだった。

「昔はね、写真一枚現像するのにも一週間待ったの。今の若い人は、なんでもアルゴリズムに決めさせて、待つことを知らないんだから」

 佳代さんの小言を無視して、僕はネガをスキャナのガラス面に置く。僕の血中を流れる微かな皇室遺伝子のネットワークが、深夜のシステム負荷の低下を検知して、わずかに脈打ったような気がした。今だ。

 ランダムに割り振られる「5分間だけの総理大臣」の権限が、僕の視界の隅にAR通知としてポップアップした。第0x29A-D2ユニット。運がいい。この5分間だけ、僕は僕自身のリクエストの署名不一致を「特例」として承認できる。

 ピー、ヒョロロロ……。
 FAX機が、平成初期の断末魔のような通信音を上げ始めた。共有型バッテリーのインジケーターが激しく明滅する。ドクトリンのアルゴリズムは、僕がネガフィルムから抽出したノイズを「解読不能な聖域」と誤認し、処理を迷っている。その隙間に、総理権限の暗号キーを滑り込ませた。

「……通った」

 数十秒の沈黙の後、FAX機が「送信完了」と書かれた小さな紙を吐き出した。それは党の鉄の規律に、僕と、今は亡き祖母の記憶が、ほんの数ミリの穴を開けた証拠だった。

「やったわね、湊。お祝いに帰りにコンビニでティラミスでも買っていきましょうか。もちろん、私の分はデータでいいけど」

 佳代さんの声は、どこか満足げだった。窓の外を見ると、遠くの公園で、今まで死んでいた古い街灯が、オレンジ色の頼りない光を灯すのが見えた。

 システムの巨大な歪みは何も変わらない。けれど、今夜だけは、この小さな不整合が世界を少しだけ暖かく照らしているように感じられた。