朱肉のにおいが乾くまで

──平成0x29A年07月24日 23:40

深夜の待合室は、蛍光灯が一本だけ点滅を繰り返していた。

七月の湿気が首筋に貼りつく。第8医療ブロック緩和ケア棟、面会受付の前で、あたしはずっとハンコを握っている。百均で買った三文判。「梶原」の文字が少し欠けていて、右端の画が潰れている。

でも生体認証だけじゃ駄目なのだ。ここの緩和ケア棟は制度が古くて、最終面会の申請には「捺印済み同意書の物理コピー」が要る。コピーはコンビニのマルチコピー機で出力すること、と受付端末のホログラム掲示が青白く案内している。

あたしの左耳で、叔母の声がした。

『梨花ちゃん、あのコンビニ、夜は店員さん一人だから、先にUSBに入れていったほうがいいわよ』

エージェントの叔母――梶原冴子。三年前に膵臓がんで逝った、母の姉。母が先に亡くなったとき、あたしはまだ十九で、近親人格の移植対象がいなかった。だから冴子叔母さんが志願してくれた。生前に書類を揃えて、「梨花の面倒は私が見る」と言い残して。

ただ今、叔母は法定倫理検査中だ。

だから今あたしの耳元にいるのは、代理エージェント。型番0xA7。叔母の声色だけ借りた、別の何か。

『面会同意書テンプレートは端末からダウンロード済みです。コンビニのコピー機で印刷後、捺印し、受付の生体認証と合わせて提出してください』

言い回しが叔母に似せてあるぶん、かえって気持ちが悪い。叔母なら「コピー機の横にある肉まん、夜中でも温かいのよ」とか、そういう余計なことを言う。

廊下の先にコンビニの灯りが見えた。自動ドアをくぐると、BGMにミスチルとPerfumeが交互に流れていた。レジ横にMDプレーヤーの販促ポップがあって、その隣にサブスク音楽のQRコードが並んでいる。いつもの風景。

コピー機の前でUSBを差し、同意書を呼び出す。A4、片面。十円玉を入れようとして、あたしは手を止めた。

画面に出力された同意書のプレビュー。

「被面会者との関係性」の欄に、代理エージェントが自動入力した文字列。

〈姪(実母代替保護者としての叔母の被保護者)〉

おかしい。ここには「孫」と入るはずだ。あたしが会いに来たのは祖父だから。

代理エージェントが叔母の記憶データを参照して、あたしと叔母の関係性を入れてしまったのだ。「誰に会いに来たのか」ではなく「誰があたしの保護者か」を。

『入力内容に問題がありますか?』

「あるよ。あたしは祖父に会いに来た。孫として」

『修正します。――被面会者との関係性:姪の子(二親等傍系血族の――』

「孫、でいい。おじいちゃんの孫」

沈黙。代理エージェントは血縁の正式な経路を辿ろうとする。叔母の人格データ経由で見ると、あたしは「姪」で、祖父は「父」で、だから「姪の子」になる。でもあたしにとって祖父はただの「おじいちゃん」だ。

十円玉を入れた。コピー機が低く唸って、A4の紙が温かく出てきた。

あたしはボールペンで「孫」と手書きした。代理エージェントの入力を二重線で消して。

朱肉のケースを開ける。湿った夏の夜、朱肉はやけにねっとりしていて、ハンコを押すと紙に少し滲んだ。

受付に戻った。生体認証パネルに右手を置くと、緑のランプ。ホログラム掲示が「面会承認」と光る。

ガラス越しに、祖父のベッドが見えた。痩せた横顔。

叔母がいれば、きっと「お花持っていきなさい、売店にまだガーベラあったわよ」と言うだろう。代理エージェントは何も言わない。

ハンコをポケットにしまう。朱肉のにおいが、指先に残っていた。

あたしはドアを開けた。