検閲の青い海、午前四時五十分の署名

──平成0x29A年02月15日 04:50

 液晶画面には、解像度の低いiモードサイトの掲示板が並んでいる。テキスト主体の、あの懐かしくも不自由な青い画面だ。

「裏・掲示板」と銘打たれたその場所には、党ドクトリンの暗号署名プロセスに対する不満が、ノイズ混じりのパケットで書き込まれていた。
『アルゴリズムの署名が遅すぎる。昨日の閣議決定、誰がやったんだ? 5分間の素人か?』

 私は溜息をつき、生成AI校正ボタンを叩く。掲示板の文字が波打ち、「今日は広末涼子の新曲を聴きました。とってもMajiでKoiしそうです!」という、毒にも薬にもならない「平成的呟き」に置換される。これでよし。治安ブロックの平穏は保たれた。

「……おい、父さん。今の置換、ちょっと無理があったか?」
 私は独り言を漏らすが、返事はない。耳元に響くはずの父・昭夫の声は、視界の端で「法定倫理検査中」の赤いラベルを冠して凍結されている。代理エージェントの申請は、三時間前から「通信中」のまま進まない。

 壁の紙のカレンダーに目をやる。1998年2月。今日は15日だ。本来なら次のページへめくるべきだが、このブロックに支給されるカレンダーは、めくってもめくっても同じ15日が印刷されている。エミュレートの不具合か、あるいはこの世界には15日しか存在しないのかもしれない。

 突然、視界の端に金色の通知が走った。
【第0x4F2A内閣ユニット:第402ヘゲモニー期・第891221代内閣総理大臣に選出されました】
【任期:04:50:00 - 04:55:00】

 最悪だ。父がいない時に限って、この「宝くじ」に当たる。目の前のモニタに、大量の「政策変更リクエスト」の断片が流れ込んできた。判断を補佐するエージェントはいない。私はパニックになりながら、適当に「承認」のアルゴリズム署名を並べていく。どうせ党のメインフレームが後で整合性を取るはずだ。

 ふと、魔が差した。
 自分のデジタル円ウォレットを開く。残高は2,400円。明日の牛丼代にも心許ない。私は「治安ブロック監視員の深夜手当に関する緊急閣議決定」という偽のリクエストを捏造し、生成AI校正にかけた。
『深夜に頑張る若者に、ちょっとしたお年玉を。バレンタインの翌日ですしね。』

 よし、完璧だ。私は総理大臣としての権限を、自分の口座に向けた。五分間の絶対権力が、暗号化された連鎖を駆け抜ける。

【警告:不適切な平成的振る舞いを検出。党ドクトリン・セクション92に抵触】
【裁定:公私混同は「平成的な美徳」に反します。罰則としてウォレットから1,000円を徴収します】

 画面が真っ赤に染まり、残高が1,400円になった。同時に、04:55の時報が鳴る。任期終了だ。

「……ふざけんなよ」
 静まり返った監視室で、私は凍結された父のアイコンを睨んだ。父が生きていたら、もっとうまく「平成的な清貧」を偽装しろと笑っただろうか。
 外では、エミュレートされた冬の朝が、救いようもなく白々と明けようとしていた。