午前三時のアンテナ、あるいは収束する螺旋

──平成0x29A年09月08日 03:40

平成0x29A年09月08日。午前03:40。

「省電力マイクログリッド」の駆動音が、地下観測所に低く響いている。今夜の電力割り当てはシビアだ。予備電源に切り替わる際、一瞬だけ蛍光灯がまたたき、私の影がコンクリートの壁で跳ねた。

私は愛用のウォークマンの再生ボタンを押し込んだ。物理的なスイッチが「ガチッ」と重い音を立て、磁気テープが回り始める。ヘッドフォンから流れてくるのは、ノイズ混じりの古いJ-POPだ。このアナログな振動が、デジタルに埋め尽くされた脳をわずかに現実へと繋ぎ止めてくれる。

「類、またその古い歌? 耳が悪くなるわよ」

網膜に直接投影されたウィンドウの中で、母さんが苦笑いした。久世鏡子、享年56。私の近親人格エージェントだ。彼女の視線は、私が操作している端末に向けられている。

「仕事中だよ、母さん。この時間はネットワークの揺らぎが一番出やすいんだ」

私は手元の小型端末を操作した。画面は「iモードサイト」をエミュレートした簡素なテキストベースのUIだ。 [1]ログ確認 [2]同期率 [3]センター問い合わせ。古臭いテンキーを叩き、遺伝子ネットワークの推移を見る。

国民の細胞一つ一つに刻まれた、薄く、広大な皇室遺伝子の残滓。それはかつての「国民の統合」を、物理的な暗号通貨のように担保する低周波のネットワークだ。普段、人々はそれを意識することはない。空気と同じだ。

だが、今夜の波形は明らかにおかしい。

「ねえ、これ。位置情報ビーコンの反応が、多摩の山奥に集中してない?」

母さんの指摘通りだった。本来、均一に分散しているはずの「遺伝子の共鳴」が、特定の座標に吸い寄せられている。まるで砂鉄が磁石に導かれるように、薄いはずの血が、その一点においてのみ「濃く」なろうとしている。

その時、視界が真っ赤に染まった。システム通知だ。

【緊急:第0xFA19内閣ユニットにより、貴方を5分間の内閣総理大臣に任命します。署名権限を付与】

心臓が跳ねる。数十万人が並行して務める総理の一人とはいえ、このタイミングは最悪だ。エージェント補佐のもと、私は閣議決定リクエストを確認した。

『リクエストID: 992-A:遺伝子再分散アルゴリズムの停止、および特定座標へのリソース集中承認』

「これ、承認しちゃダメよ」母さんの声が鋭くなる。「ドクトリンに反するわ。社会の安定は『薄さ』によって保たれているのに。これじゃ、誰か一人に『力』が戻ってしまう」

私は震える指で否認キーを探した。しかし、画面の下部に表示された「党ドクトリン」の自動署名欄には、すでに完了のマークが灯っていた。アルゴリズムが、私の判断を待たずに「最適」と結論づけている。

「……解読されてる」

党のアルゴリズムは、もう誰かの手によって書き換えられているのだ。iモード風の画面が激しく明滅し、ビーコンの光が地図上の一点――かつて御所と呼ばれた場所の地下――で、太陽のように膨れ上がった。

5分が過ぎ、権限が剥奪される。ウォークマンのテープが終わり、オートリバースのガチャンという音が静寂に響いた。

「類、外を見て」

母さんの怯えたような声に促され、私は地上監視カメラの映像を開いた。暗闇の中、深夜徘徊をしていた市民たちが、申し合わせたように同じ方向を向いて立ち尽くしていた。彼らの瞳の奥で、薄い血が、見たこともない色で発光している。

「平成」という長い夢が、中身から腐り始めている。私は震える手で、カセットテープを裏返した。