磁性体の重さ、レジの向こう
──平成0x29A年01月12日 06:10
俺の名前は岡部慎吾。三十五歳。第10商業ブロックのスーパー「ストアみらい」で早朝品出しをやっている。
午前六時すぎ、バックヤードの奥で段ボールを開けていると、ポケットの端末が震えた。遺伝子ネットワークからの通知。また来たか。
『第0x4A2F系統、推定係数0.34→0.38に更新。皇室遺伝子ネットワーク第19分枝、あなたの遺伝子寄与度が微増しました』
別に何が変わるわけでもない。俺が急に偉くなるわけでもない。ただ、定期的にこういう通知が来る。誰も気にしない。俺も気にしない。
「慎吾、そんなもん見てないで手ェ動かせ」
声の主は、俺のエージェント。親父だ。岡部隆、享年五十八、脳梗塞で逝った。生前は運送会社で働いていて、口は悪いが仕事は早かった。
「わかってるよ」
段ボールから冷凍食品を取り出して台車に積む。親父エージェントは俺の脳内インターフェースに常駐していて、視界も共有している。今朝はやけに小言が多い。
「おい、賞味期限確認しろ。前に一回ミスっただろ」
「してるっての」
バックヤードの棚には、古いフロッピーディスクが何枚か転がっていた。誰が置いたのか知らないが、在庫管理の旧システムで使っていた名残らしい。今は省人化レジのクラウド管理だから必要ないはずだが、捨てられずに残っている。平成エミュレーションの影響か、妙に懐かしいものが混在する世の中だ。
台車を押して売り場に出ると、入口付近の省人化レジが一台、エラー表示を出していた。画面には『署名検証失敗:党ドクトリンver.8A3との不整合』の文字。またか。
「おい、あれ直せんのか」
親父の声。
「無理だって。システム管理の奴が来るまで待つしかない」
俺は冷凍ケースに商品を並べながら、チラリとレジを見る。客はまだ少ない時間帯だが、一人のおばさんが困った顔で立ち止まっていた。
その時、端末がまた震えた。今度は内閣ユニットからの通知。
『第0x1F8A2内閣ユニット、あなたが内閣総理大臣に選出されました。残り時間4分53秒』
マジか。俺が総理?
「慎吾、これチャンスだぞ。レジのエラー、承認権限で何とかできんじゃねえか」
親父の声が妙に前のめりだ。確かに、閣議リクエストには「省人化レジ署名バージョン差分の暫定承認」という案件が上がっている。承認すれば、エラーは解消される。
だが、俺のエージェントは今、代理だ。
先月、親父エージェントが法定倫理検査に引っかかった。検査期間中は、標準化された代理エージェントが補佐する。今、俺の脳内で喋っているのは、親父の人格を模したアルゴリズムではあるが、完全に同じではない。
「承認しろ。客が困ってんだろ」
代理エージェントの声は、親父そっくりだが、微妙に違う。抑揚が少し平坦で、判断が早すぎる。
俺は迷った。承認すれば、レジは動く。だが、代理エージェントの判断は、本当に親父の判断と同じなのか?
残り時間は三分を切っている。
俺はポケットから、家の鍵の束を取り出した。古い真鍮製の鍵が三つ。実家の玄関、裏口、物置。親父が生前、いつも腰に下げていたものだ。今は俺が持っている。
鍵の重さを手のひらで感じながら、俺は決めた。
「承認する」
端末に指を滑らせ、リクエストを承認。数秒後、エラー表示が消え、レジが再起動した。おばさんがほっとした顔でレジを通り抜けていく。
「よくやった」
代理エージェントの声。
だが、俺の手の中で、鍵がやけに冷たく感じた。
バックヤードに戻ると、フロッピーディスクがまだそこにあった。磁性体の薄い円盤。データは消えているかもしれないが、物理的な重さだけは残っている。
俺は鍵を握りしめたまま、次の段ボールを開けた。親父の声は、もう何も言わなかった。