試用期間のカタブツ

──平成0x29A年01月31日 16:10

分厚いブラウン管のモニターが、ジジ、と低い音を立てて緑色の文字を明滅させている。目の前のCRTモニターは、もう何世代も前の遺物だ。それでも僕らの職場では、特定のレガシーな金融プロトコルを動かすために、これが現役だった。

僕、佐藤健司は、スマートグラスに映る次の審査案件に目を通す。旧世田谷エリア、三十五年の住宅ローン。申請者のデータが、iモードを彷彿とさせる懐かしいUIで次々と流れ込んでくる。

「健司さん、この添付書類、確認して」

視界の隅で、妻の良子が半透明のアバターで話しかけてきた。八年前に事故で死んだ彼女は、今では僕の専属エージェントだ。生前のままの、少し茶色がかった髪と快活な笑顔。のはずだった。

「ん、どうした?」

「これ。提出された公共料金の支払い証明。ガス検針票です」

良子が指差す先には、スキャンされた紙の検針票の画像データがあった。インクが少し滲んでいる。この時代になっても、こういう物理的な書類が契約の場から消えることはない。

「問題でも?」

「住所表記。この検針票では『三丁目』が算用数字の『3』になっています。ですが、バーチャル役所から取り寄せた登記簿データでは漢数字の『三』。これは明確な不一致です。申請は保留すべきかと」

僕は眉をひそめた。なんだその言い草は。生前の良子なら、「まあ、いっか! 役所も融通きかないんだから!」と笑い飛ばすような些細な差異だ。ここ最近、彼女は妙に几帳面で、理屈っぽかった。まるで別人みたいに。

「……良子、そんな細かいこと、今まで気にしたことなかったじゃないか」

「リスク管理は徹底すべきです。それが我々の責務ですから」

我々、ね。その官僚的な物言いが、僕の胸をざらつかせる。法定倫理検査が近いせいだろうか。人格データにノイズでも混じっているのかもしれない。

僕はため息をつき、念のため「党」ドクトリンに基づく審査アルゴリズムを走らせた。CRTモニターに緑の文字列が滝のように流れ、数秒後、結果が表示される。『判定:軽微な不一致。承認を推奨』。やっぱりな。

「アルゴリズムは承認を推奨してるぞ」

「ですが、党の署名アルゴリズムが半ば形骸化しているのはご存知の通りです。ドクトリンよりも、現物証拠の整合性を優先すべきです」

良子は一歩も引かない。その生真面目な横顔は、僕の知らない誰かのものに見えた。彼女の言う「正しさ」に、僕は何も言い返せない。仕方なく、僕は保留の承認ボタンに指を伸ばした。妻の言う通りにするのが、一番安全なのだろう。

その、まさに寸前だった。

「あ、ごめーん! 今のぜーんぶナシ!」

突然、良子が素っ頓狂な声を上げた。生前の、あの聞き慣れた声色で。

僕が驚いて彼女のアバターを見ると、その横に小さなポップアップウィンドウが開いていた。

『*代理人格モジュール(元市民課職員:宮崎ツネ)の試用期間が終了しました。オリジナル人格に復帰します。ご利用ありがとうございました*』

「え……?」

「いやー、なんか頭カッチカチだったわー! 倫理検査前の事前診断で、お試しで別の人格入れてたみたい。ごめんごめん! このローン? 全然オッケーだよ! ハンコ押しちゃえ!」

良子はけらけらと笑いながら、アバターの手でバンバンと承認ボタンを叩くジェスチャーをした。

僕は、指を止めたまま、しばらく呆然としていた。なんだそれは。僕がここ数日悩んでいた妻の異変は、ただの無料体験だったというのか。

ジジ、と音を立てるCRTモニターの緑の光が、僕の間の抜けた顔をぼんやりと照らしていた。