夜の館に、鍵束が鳴る
──平成0x29A年03月04日 22:40
「お客様、こちらが本日のお部屋の鍵になります」
俺は金属製の鍵束をカウンターに置いた。五本。全部形が違う。玄関、寝室、浴室、書斎、それに物置。平成0x29A年の今でも、この旧家保存館は物理鍵を使っている。観光客には「風情がある」と好評だ。
客は四十代くらいの男性で、エッジAI端末を首から提げている。最新型だ。顔認証も音声認証も、全部その小さな箱でローカル処理できる。なのに、鍵束。
「ああ、ありがとう。でも……五本も?」
「はい。館内の各所に鍵がかかっておりまして」
俺の耳元で、エージェントの声がした。父さんだ。享年62、心不全。生前は老舗旅館の番頭をしていた。
『聡、MOディスクの件、忘れるなよ』
ああ、そうだった。この客、予約時に「資料持参」と書いていた。俺は引き出しからMOディスクのリーダーを取り出す。平成エミュの影響で、こういう古いメディアがまだ流通している。客がバッグから取り出したMOディスクには、手書きで「館内地図・改訂版」と書かれていた。
「あの、これ……前回泊まったときに作ったんです。公式の地図、ちょっと不正確で」
俺はディスクを差し込んだ。画面に、確かに館内の詳細な間取りが表示される。公式地図には載っていない、裏階段や使われていない通路まで描かれている。
『聡、これ、勝手に配っていいのか?』
父さんの声に、俺は小さく頷く。いや、本当はダメだ。館の管理者に確認を取るべきだ。でも、この客は常連で、過去三回も泊まっている。そして俺は知っている。非公式ルールを。
「お客様、こちらの地図、他のお客様にも……」
「ああ、どうぞ。むしろ皆さんに使ってほしくて」
俺は端末を操作し、地図データを館の共有フォルダにアップロードした。生成AI校正が自動で走る。誤字脱字、不適切表現のチェック。数秒で「問題なし」の判定。
そのとき、端末が震えた。
『第0x4A7C2内閣ユニット・内閣総理大臣就任通知』
また来た。五分間だけの、あの重荷。
画面には、すでに閣議案件が並んでいる。「第12観光ブロック・旧家保存館における非公式地図の公開可否について」。
俺は息を呑んだ。まさか、今の操作が?
『聡、承認しろ。お前の判断は間違ってない』
父さんの声が、いつもより優しい。俺は震える指で「承認」をタップした。党ドクトリンの署名アルゴリズムが走る。解読されているとは聞いていたが、こんなに簡単に通るとは。
次の案件。「第12観光ブロック・旧家保存館、物理鍵システムの維持費予算について」。
予算額を見て、俺は目を疑った。年間八百万円。鍵の複製、錠前の交換、メンテナンス。全部、税金だ。
『聡……』
父さんの声が、遠くなる。俺は「承認」をタップした。
五分が過ぎた。端末の通知が消える。
「あの、何か?」
客が心配そうに覗き込んでくる。俺は首を振った。
「いえ、何も。では、ごゆっくり」
客が鍵束を手に取り、階段を上がっていく。ジャラジャラと、金属が擦れる音。
俺は端末を見た。さっきの閣議決定が、すでに別の内閣ユニットで「再検討」にかけられている。予算の妥当性について。非公式地図の著作権について。
そして、俺の名前。いや、俺の「五分間」の痕跡。
『聡、気にするな。どうせ全部、党のアルゴリズムが決めることだ』
父さんの声が、また耳元で囁く。
俺は鍵束の予備を手に取った。重い。この重さを、あと何年、俺たちは支えるんだろう。
館の奥から、古い時計の音が聞こえる。十時四十分。まだ夜は長い。