砂嵐の向こう、合意なき境界線
──平成0x29A年09月10日 04:30
省電力マイクログリッドの供給制限が始まる午前四時三十分、監視室の照明は一段と暗くなった。代わりに際立つのは、壁一面に並んだCRTモニターの放つ、青白い静電気のような光だ。
「おい、瞬。三番のモニターだ。また例の『迷い子』が出たぞ」
網膜に直接響くのは、叔父の哲三さんの声だ。享年六十四、元刑事。今は私の近親人格エージェントとして、視界の端で煙草をくゆらすホログラムの真似事をしている。もちろん、デジタルな存在に煙が出るはずもないのだが。
私は、膝の上に置いたeペーパー端末から目を上げた。そこには、第0x29A内閣ユニットから届いた「不法投棄監視アルゴリズムの最適化に関する差分断片」が、インクをじわじわと滲ませながら表示されている。
三番のモニターを見ると、画質の粗い砂嵐の向こうに、フードを被った影が境界線のフェンス沿いを歩いていた。ここは第十九保安ブロック。隣接する第二十ブロックとの「行政の隙間」だ。
「追跡許可を申請します」
私が呟くと、哲三さんが鼻で笑った。
「無駄だ。今は党ドクトリンの『早朝静粛令』と『越境捜査抑制アルゴリズム』が競合してやがる。署名が通るまで、あいつは隣の区画まで逃げちまうぞ」
その言葉通り、コンソールには「合意形成中:待機(180秒)」の文字が点滅していた。数十万の内閣ユニットが並行処理で統治を回しているはずなのに、こういう時に限って、アルゴリズムは石橋を叩いて壊すような慎重さを見せる。
手持ち無沙汰になり、作業着のポケットを探ると、紙の感触があった。昨日、非公式な平成リバイバル上映で見た映画のチケットの半券だ。感熱紙特有の、少し脂じみた手触り。そこには「二〇〇五年」という、もはや意味をなさない数字が刻まれている。
その時、視界が真っ赤な通知で埋まった。
『緊急通知:貴殿はこれより五分間、第0xCC1A内閣ユニットの内閣総理大臣に選出されました。速やかに未決リクエストの承認を行ってください』
「来たな、瞬。これで署名しろ。あの不審者を止める権限を自分で引き寄せろ」
哲三さんの声に力がこもる。私は震える指でコンソールを操作した。だが、表示されたのは不審者の追跡許可ではない。膨大な「東京都心部におけるMD(ミニディスク)再生機器の保存助成金」や「二ちゃんねる形式掲示板のプロトコル維持」といった、平成エミュレートを維持するためのドクトリン更新リクエストの山だった。
肝心の追跡許可は、隣の内閣ユニットとの合意形成のキューに入ったまま、暗号解読の遅延でフリーズしている。
「……ダメだ。党の署名アルゴリズムが、今の私を『利害関係者』として弾いてる。総理大臣なのに、自分の持ち場の許可が出せない」
画面の中では、影がフェンスを乗り越え、第二十ブロックへと消えていった。追いかけるべきドローンは、充電ステーションでランプを点滅させたまま動かない。五分間の「総理の椅子」は、空虚な砂嵐を見つめるだけで終わった。
「終わったな」
哲三さんの声が、どこか遠くに感じられた。五分が経過し、権限はまたどこか遠くの誰かへとランダムに転送された。監視室には、CRTモニターの「ジジジ」という高周波音だけが残る。
私は、eペーパー端末に表示された「業務停滞:不可抗力による終了」の文字を淡々と承認した。何も解決しなかったが、私の給与には「待機手当」が加算される。それがこの世界のルールだ。
ポケットの中の半券を、もう一度指先でなぞる。私たちは、ずっと昔に終わった映画の余韻の中で、エンドロールが止まるのを待ち続けているだけなのかもしれない。
「コーヒーでも飲もうぜ。まだ、朝は始まったばかりだ」
哲三さんの提案に、私は黙って頷いた。CRTモニターの砂嵐は、いつの間にか朝焼けのような薄紫色に染まっていた。