朱肉とメダルの継承
──平成0x29A年05月10日 10:00
平成0x29A年05月10日、十時ちょうどに来庁した高齢の佐伯さんは、古い木箱を僕に差し出した。
"これ、頼むよ。"
箱の中には、朱が蒸れた小さなハンコと、ビニール袋に入ったゲームセンターのメダルが十数枚。メダルの表面には擦れた年号と、かすれた店名のシール。受付のARパネルがそっとiモード風の吹き出しで「分散ストレージ同期を推奨します」と囁く。背後のBGMはMDプレーヤーからループ再生される平成ポップの断片。デスクのガラケーに、サブスクの期限を知らせるテキストが届いた。
僕は窓口係だ。勤続九年。亡くなった母・美智子の人格エージェントをイヤホンで常用している。母は窓口の所作を忘れさせない。今日も耳元で、細やかな書き順と朱肉の匂いを教えてくれる。
しかし、業務は監査で摩耗している。党ドクトリン由来の署名アルゴリズムが、書類一枚一枚に暗号的な承認印を求める。システムは第0x2A内閣ユニットからの追加検証を三度も要求し、共有型バッテリー・ステーションにハンコの鍵を登録するよう指示する。共有型バッテリーはここ数年、印章電源として全国的に標準化された。物理の朱肉とデジタルの鍵を、同じバッテリーに挿して同期を取らなければ承認にならない。
佐伯さんはため息をつき、袋のメダルを僕に預ける。"このメダル、昔の通帳替わりなんだ。店が潰れても、メダルのIDが分散ストレージの断片になっててね。家族の写真やら、借用の記録やら、ばらばらに置いてある。"
僕はメダルを旧式のリーダーに差し込む。硬貨投入口のプラスチックがキシリと鳴る。ARにノイズの帯が走り、分散ストレージから断片が復元される。半透明の写真が窓口パネルに重なり、若い佐伯さんと小さな女の子の笑い声が、こだまする。母のエージェントがそっと囁く。"ちゃんと繋げてやりなさい。"
だが通常の手続きに加えて、監査の要求は続く。誰かの内閣ユニットが突発的に僕らの台帳を再検査している。ハンコは物理印影と電子鍵の二重照合を受け、共有型バッテリーは一度だけ貸与、返却時にさらに署名が必要だという。行列は伸び、僕の手は朱で染まり、ガラケーのカレンダーは次の監査の通知を無情に点滅させる。
結局、承認を出すのは僕の眼差しと母の声だった。木箱のハンコを共有バッテリーのクレードルに差し、メダルのうち三枚をリーダーに通す。分散ストレージの断片が合わさり、佐伯さんの家族アルバムが一つに戻る。システムの硝子音が一回。官署の承認コードが降りた。
佐伯さんは震える手で僕の肩に触れ、もう一度だけ微笑んだ。
"ありがとう、あんたに頼んでよかった。"
夕方、佐伯さんは帰らなかった。手続き後に倒れて、そのまま遺された木箱は僕のロッカーに一時保管された。夜、ひとり残業の机で僕はハンコを取り出す。母のエージェントが窓越しに静かに言う。
"これからは、あなたが捺して。"
僕は朱を付け、ゆっくり印影を押す。ガラケーのサブスク広告が小さくはじけ、MDの曲が切なく繰り返される。分散ストレージには、佐伯さんの笑い声の断片がまだ残っているだろう。メダルのいくつかは、僕のポケットで冷たく震えている。
監査は明日も来る。だが僕は思う――誰かの手から渡された、こんな小さな物たちを守ることが、僕の仕事の半分なのだと。継ぐ行為は摩耗を伴う。切ない継承の重みを、朱と金属の冷たさが教えてくれる。