避難所のプリクラは盛れない
──平成0x29A年06月19日 06:00
平成0x29A年06月19日 06:00。
体育館の床にラインテープを貼り直しながら、私はあくびを飲み込んだ。災害対応訓練は年に何度もあるのに、毎回「初動」をやり直すみたいに忙しい。入口の横では、段ボールの山に「毛布」「粉ミルク」「簡易トイレ」と油性ペンで書き足している。
耳元で、祖父の声がする。
『まずガス。避難所ってのは、ガスが止まっててもガスの書類が来るんだ』
私のエージェント――故・峰岸重吉、享年72。生前は検針員だった。いまは私の記憶補助の中で、訓練のたびに現場の段取りを口うるさく見張っている。
「来ちゃったよ、じいちゃん」
受付テーブルに、今朝の配布物が束で置かれていた。水の備蓄表、炊き出しの手順、そしてなぜか、各家庭宛のガス検針票。封筒の角が湿気で少し波打っている。
『ほらな。票が来たら、止まってても“検針”しろって書いてある。平成の名残だ。紙が仕事を作る』
私は票のバーコードを読み取ろうとして、端末の画面が一瞬だけ真っ白になった。昨夜入ったはずの記憶補助アップデートが、途中でこけたらしい。端末の右上に小さく、
「更新失敗:差分断片 3/7 未適用」
と出る。
「やば。受付ロジックが古いまま……」
訓練なのに、端末は本番と同じ台帳につながっている。カーボンクレジット台帳も。避難所の発電機を回すと、排出分が自動で引かれる。引けなきゃ、あとで監査の人に怒られる。
祖父が、ため息みたいに言った。
『台帳は嘘つかねえが、更新は嘘つく』
体育館の隅では、救護班がナノ医療パッチのデモをしていた。透明な四角を腕に貼るだけで、血中の炎症マーカーを測って、必要なら微量の薬剤を放出する。小学生役の子が「痛くない!」と叫び、周りの大人が拍手した。
私は受付の列を見た。町内会の人、保育士さん、深夜明けの警備員。全員が「本人確認」を通らないと、毛布も水も配れない。
「更新、今からやり直せる?」
私は端末のメニューを開く。iモードみたいなアイコンが並び、その上を薄いAR広告が横切る。
「今なら訓練参加でポイント二倍!」
平成が、重ね塗りみたいに残ってる。
祖父が言う。
『まずは代替。紙で回せ。検針票の番号、手書きで控えろ。あとでまとめて流せ』
「紙で、台帳に?」
『やれ。台帳は後から追いつく。人が先だ』
私はガス検針票の束を開封し、番号だけをメモ帳に写し始めた。ボールペンのインクが少し滲む。列が伸びる。
そのとき、体育館の入口から、見慣れない機械が運び込まれた。キャスター付きの箱。
「え、プリクラ機?」
誰かが笑った。訓練の備品リストにそんなのあったっけ。
運んできた若い隊員が、胸のIDを見せて言う。
「本人確認の補助です。顔の特徴点を、いちばん安定して取れるのがこの型で。あと、避難所の心理ケアにもなるって……」
プリクラの上部には、古いようで新しいレンズ。横に「撮影データは内閣ユニット連鎖に暗号化登録」と貼り紙。平成の遊びが、いつの間にか行政の道具になっている。
私は端末を見た。更新失敗のまま、認証が通らない。プリクラなら、通る?
「じゃ、これで……」
列の先頭のおばあさんに、カーテンの中に入ってもらう。フラッシュが光って、数秒後にシールが出てきた。おばあさんの顔が、妙に目が大きく、頬がつやつやで、若返っている。
『盛れすぎだろ』と祖父が笑う。
私はそのシールのQRを端末にかざした。
ピッ。
画面が緑になり、「配給許可」「カーボンクレジット台帳:-0.02」と淡々と表示された。発電機が回っているから、きっちり引かれる。
「通った……」
列がざわめく。次の人、次の人。プリクラのカーテンの前が、避難所でいちばん長い列になった。救護班のナノ医療パッチより人気だ。
私は笑いたいのに、笑えない。記憶補助の更新が半端なせいで、私の端末は「盛れた顔」だけを本人と認めている。
祖父が、どこか楽しそうに言った。
『ほらな。平成はこうやって生き残る。災害でも、台帳でも、顔が盛れてりゃ通る』
最後に私は、自分もプリクラの中に入った。フラッシュ。
出てきたシールの私は、知らないくらい元気そうで、目が大きくて、どこにも寝不足がない。
それを端末にかざすと、今日一日分の受付権限が付与された。
「臨時オペレーター:峰岸(偽装)/有効5分」
……私の名字じゃない。
祖父が小さく咳払いをした。
『悪いな。更新が抜けてると、昔の俺の名義が出る。検針票の頃の。たぶん、いまの内閣ユニットも誰かの名義のまま回ってんだろ』
体育館に、またフラッシュが光る。
私はプリクラのシールを指で撫でた。紙はまだ、世界を動かす。
盛れた顔の私だけが、今日の「私」として承認されるのが、なぜか少し可笑しくて、少し怖かった。