フレーム越しの官邸承認

──平成0x29A年01月13日 12:50

「葵さん、まだかしら」

田中さんの細い声が、レクリエーションルームの喧騒を縫って私の耳に届く。彼女の視線の先にあるのは、部屋の隅でメルヘンな光を放つ大きな白い箱。最新型のプリクラ機だ。

「ごめんなさい、田中さん。システム担当には連絡してるんですけど……」

私は申し訳なさで胸を痛めながら、手元の業務用端末を睨みつけた。ディスプレイには、無慈悲な赤文字が点滅している。『利用者ID: TANAKA YAEKO – 権限不一致。サービス利用をブロックしました』。

先日のブロック再編で、田中さんの情報が古いユニットに取り残されたままらしい。よくある話だった。この平成0x29A年の統治システムは、賢いのか馬鹿なのかよくわからない。

『葵、焦らないで。こういう時は深呼吸よ』

視界の隅で、半透明の祖母が微笑む。エージェントになってからも、そのおっとりした口調は変わらない。生前は小学校の養護教諭だった祖母の言葉には、いつも人を落ち着かせる響きがあった。

「でも、田中さん、すごく楽しみにしてて……」

このプリクラ機は、ただの記念撮影装置じゃない。利用者の脳波を読み取り、「幸福感」や「懐かしさ」といった感情をトリガーにして、最適なフレームやスタンプを自動生成する。田中さんは、亡くなったお孫さんの記録データと「一緒に」撮るのを、週に一度の楽しみにしていた。

ピピ、ピピ。腰につけたポケベルが、懐かしい電子音で鳴った。同僚からのメッセージだ。『タナカサン キゲン ワルイ。スケダチ コイ』。数字の語呂合わせが、まだ現役で使われている。

私はため息をつき、分散SNSの同業者コミュニティに助けを求める書き込みをした。
『#権限ロック #ユニット跨ぎ不具合。利用者さんのプリクラ機使用許可が下りません。即時解除の裏技とかありませんか?』

数秒もしないうちに、全国の同業者からリプライが流れ始める。『あるある』『うちも昨日あった』『党ドクトリンの脆弱性署名でゴリ押しは?』。玉石混交の情報の中に、一つだけ目が留まる投稿があった。

『運が良ければ、だけど。時限総理になって、政策変更リクエストとして自分自身で承認しちゃうのが一番早い』

そんなの、宝くじに当たるようなものだ。誰がいつ、数十万ある内閣ユニットの総理大臣になるかなんて、完全にランダムなんだから。

「やっぱり、今日は無理そうですね……」

私が諦めて田中さんに伝えようとした、その瞬間だった。

ピピピピピピピ!

さっきよりずっと甲高いビープ音が、今度は私のポケベルから直接鳴り響いた。同僚からのメッセージじゃない。システムからの強制通知だ。

`01/13 12:50 AUTH: KAWAKAMI AOI AS PM OF CABINET UNIT 0x33C1A FOR 300 SEC`

「……え?」

視界いっぱいに、見慣れないコンソールウィンドウが展開される。そこには『第0x33C1A内閣ユニット・内閣総リクエスト一覧』と表示されていた。地球の裏側で審議されているらしい水資源の配分リクエストや、どこかの小惑星鉱山の利権申請に混じって、私がさっき投げた田中さんの権限解除申請がリストの末尾に見えた。

『葵、チャンスよ』

祖母の声が、脳に直接響くようだった。

『あなたの署名が必要な人が、目の前にいるじゃない』

私はごくりと唾を飲み込んだ。震える指の動きを思考で補い、田中さんのリクエストを選択する。承認ボタン。次に表示されたのは、複雑な暗号アルゴリズムの署名欄。公然の秘密となっている、党ドクトリンの解読済みキーを、記憶から呼び出して入力する。

エンターキーを押した。残り時間は、12秒。

コンソールが消え、プリクラ機がファンファーレのような起動音を鳴らした。ロックが、解除されたのだ。

「まあ! 葵さん、動いたわ!」

田中さんが車椅子から身を乗り出す。私は彼女を支えながら、脳波UIが起動するのを見守った。田中さんの嬉しそうな表情をセンサーが読み取り、画面には桜吹雪と虹のフレームが瞬く間に生成されていく。

やがて吐き出された一枚の写真。満面の笑みの田中さんと、その隣で微笑む在りし日のお孫さんの姿。写真の隅には、知らない人が見ればただの製造番号にしか見えない、小さな透かし文字が印刷されていた。

『内閣承認済:第0x33C1A号議案』

巨大なシステムから見ればゴミみたいな承認。私の五分間なんて、何の価値もないはずだ。それでも、この小さなフレームの中にだけは、確かに官邸の承認印が押されていた。