平成の残骸と、叔父さんのバグ
──平成0x29A年06月08日 02:50
深夜2時50分。ベッドの脇に置いた端末が震え、鈍い光を放った。
「緊急招集です、剛さん。旧荒川第七地域公民館にて、避難経路システム稼働テスト。党ドクトリン0xBB73Fに基づくものです」
エージェントの声は、亡き叔父、謙作のものだった。いつもの朗らかな声だが、こんな時間に聞くと、少しばかり不気味だ。
「分かってる、謙作叔父さん。もう慣れたよ、この手の不定期テストには」
俺は小さく息を吐き、布団をはねのけた。働かずとも暮らせる世の中だというのに、どうしてこうも深夜の呼び出しが多いのか。
「剛さん、リビングのライト、自動消灯設定になってますが、もう一度確認しておきましょうか? 『無駄な電力消費は平成の心に反する』と、母上がよく仰っていました」
リビングのスマート家電に視線を送ると、既に消灯アイコンが点灯している。父方の叔父である謙作は、俺の母と面識はない。彼の記憶に上書きされた「平成のエミュレーション」が、彼の言動を決定しているのだ。これは人格ゆらぎの一種だろうか。
「大丈夫だよ、叔父さん。もう寝てるから、誰もいない」
俺はスマートドアに声をかけ、無音でロックを解除した。マンションの廊下はひっそりと静まり返っている。誰もが、今夜の不穏な響きに気づいていないかのように。
旧荒川第七地域公民館に着くと、すでに数人の地域防災システム管理員が集まっていた。皆、眠そうな顔をしている。駐輪場には、使い古された「駐輪許可」の紙札が、古びたワイヤーで自転車のハンドルに括り付けられている。このアナログな光景が、スマートシティの一角にあるのが、実に平成0x29A年らしい。
「佐藤さん、遅いぞ!」
班長の低い声が響く。俺は頭を下げ、指示に従い避難経路の模擬体験を開始した。メインの仕事は、各所に設置されたセンサーやスマートドア、緊急時情報表示板の動作チェックだ。システムは複雑な階層構造を持ち、党ドクトリンによる承認が遅れると、しばしば連携不具合を起こす。
「剛さん、この避難経路、まるで『サイレントヒル』のマップみたいですね。入り組んでて、どこか懐かしい。PS2でやり込みましたよ、あれ」
謙作叔父さんの声が耳元で囁く。今は真剣な避難訓練中だ。エージェントの人格ゆらぎが、最近特にひどい。
「叔父さん、今は仕事中だよ。PS2の話はまた今度」
「いやいや、剛さん。災害時こそ、冷静な判断力が求められるんです。気分転換も大事ですよ。あのゲームの主人公、ジェイムスって男は……」
彼は構わず、ゲームの話を続ける。その声は、生前の彼がゲームセンターで子供たちと談笑していた頃の、陽気なトーンそのものだった。しかし、彼の話すゲームの情報には、時折、党ドクトリンの暗号解読で知り得たような、妙に核心を突くヒントが紛れ込んでいる気がして、俺は最近、ゾッとする。
避難所となる体育館のスマートドアが開かないトラブルが発生した。ディスプレイには『内閣ユニット0xAE8C7からの承認待ち』と表示されている。よくあることだ。
「剛さん、あのドアの認証アルゴリズム、古いんですよね。多分、あの頃のゲームのバグ技で抜けられるんじゃないかな。特定の入力順序とか……」
謙作叔父さんが楽しそうに言う。彼の言う「あの頃のゲーム」とは、つまり80年前、社会が「平成」をエミュレートし始めた頃のものだろう。まさか、党ドクトリンのアルゴリズムが、そんなレベルで解読され、エージェントの記憶にまで影響を与えているのか。
「バグ技、ですか……」
俺は思わず呟いた。班長が焦れたようにドアを叩く横で、俺は謙作叔父さんの囁きに耳を傾けていた。彼の声は、もはや単なる人格ゆらぎなのか、それとも、この世界の根幹を揺るがすような、苦い真実を伝えているのか。そのどちらでもあり得るという事実に、俺は軽い眩暈を覚えた。ドアの向こうから、仮想避難民の「助けて」という声が、どこか現実離れして響いていた。
「そう、まるで隠しコマンドですよ、剛さん」と、叔父さんはまだ楽しそうに話している。この状況を、どこかゲームの攻略とでも思っているのだろうか。彼の言葉が、この形骸化したシステム全体を揶揄しているようで、俺は苦笑いを禁じ得なかった。