訓練の中断、紙の誤差

──平成0x29A年12月31日 12:10

俺の左腕に巻かれた腕章には「第0x4F2A8訓練ユニット・誘導班長」と印字されている。今日は年末の広域避難訓練。旧市街の第6ブロックが舞台だ。

「班長、次の誘導ポイントはどこですか」

後輩の声に、俺は腰のポーチから紙の地図を引っ張り出した。デジタル地図もあるが、災害時は通信が途絶える想定だ。紙の方が確実——そういう建前で、平成エミュは紙の地図を配っている。実際には衛星も冗長化されているのだが、まあいい。

地図を広げた瞬間、俺の視界の端にAR広告が滑り込んできた。

『年末セール!カーボンクレジット台帳、今なら三割引!』

ちかちかと点滅する文字列。邪魔だ。災害訓練中にこんなもの流すなよ。俺は舌打ちして視線を地図に戻した。

「次は……ここ。旧商店街の交差点」

「了解です」

後輩が小走りで先導役の列に戻っていく。俺は地図を畳みながら、ふと壁に貼られた紙のカレンダーに目をやった。今日は12月31日。明日から新年だ。カレンダーには「平成0x29A年」と印刷されているが、誰もそれを不思議には思わない。こういうものだから。

「光司、ちょっといいか」

エージェントの声が耳の奥で響く。父さん——いや、父さんの人格を移植されたエージェントだ。

「どうした」

「お前の腕章、ちょっと変だぞ」

「変?」

俺は腕章をもう一度見た。確かに「誘導班長」と書いてある。何も変じゃない。

「いや、システム上の登録がな。お前、今『第0x4F2A8訓練ユニット総責任者』になってる」

「は?」

俺は思わず声を上げた。周囲の訓練参加者がちらりとこちらを見る。

「ちょっと待て。俺は班長だぞ。総責任者なんて——」

「システムのミスだろうな。お前の認証IDが、どこかで上書きされたんだ。今、訓練全体の承認権限がお前に集中してる」

父さんの声は淡々としているが、俺の頭は混乱していた。総責任者?そんなはずはない。俺はただの誘導班長で、避難者を次のポイントに案内するだけの役割だ。

「で、どうすればいい」

「一旦、訓練を中断して修正申請を出すしかない。このままだと、お前が全ユニットの承認を一人で背負うことになる」

「中断……」

俺は周囲を見回した。何百人もの参加者が、整然と列をなして避難経路を辿っている。訓練は順調に進んでいる。ここで中断したら、全員が足止めを食らう。

「光司、早くしろ。このままだと——」

「待ってくれ」

俺は地図をもう一度広げた。次の誘導ポイント、その次、その次。全部、俺の頭に入っている。権限が間違っているなら、間違ったまま進めばいい。どうせ訓練だ。実害はない。

「このまま行く」

「光司——」

「大丈夫だ。訓練が終わったら修正すればいい」

父さんは何も言わなかった。呆れたのか、諦めたのか。

俺は地図を畳み、次の誘導ポイントへ向かった。AR広告がまた滑り込んでくる。『カーボンクレジット台帳——』。無視した。

訓練は無事に終わった。参加者は全員、指定の避難場所に到着した。俺の腕章は「誘導班長」のままで、システム上の「総責任者」という誤差は、誰にも気づかれなかった。

夕方、事務所に戻ると、修正申請の通知が届いていた。『権限誤照合の修正完了』。あっさりしたものだ。

「な、言っただろ」

父さんの声が少し明るい。

「ああ。でも、悪くなかった」

「何がだ」

「間違ったまま、ちゃんと終われたこと」

父さんは笑った。久しぶりに聞く、あの笑い声だった。