トナーの熱と、枝豆の産声
──平成0x29A年08月27日 00:00
平成0x29A年8月27日、午前0時。深夜の第19農業プラントは、培養液の循環音と、遠くで鳴くエミュレートされた蝉の声に満ちていた。
「菅野主任。第4培養槽のEC値が0.1上昇しています。補正しますか?」
傍らで浮遊するAI秘書『AS-04』が、平坦な声で訊ねてくる。法定倫理検査でドック入りした父さんの代わりに、この一週間、僕の隣にいるのはこの無機質な球体だ。父さんのエージェントなら「このくらいの熱さなら、枝豆も喉が乾くだろ」と笑って、数値を無視したはずなのに。
僕は『記憶補助アプリ』を起動し、父さんが生前遺した栽培記録の断片を脳内に同期させた。網膜に、土のついた大きな手と、1990年代風の古ぼけた軽トラックの残像が浮かぶ。プラントの合成土壌にはない、泥の匂いが鼻腔をかすめた。
その時、視界が真っ赤に点滅した。第0x402C2内閣ユニットからの強制接続。心臓が跳ねる。
『内閣総理大臣に任命されました。任期は300秒。閣議決定リクエストが1件届いています』
またこれだ。並行処理される数十万のユニットの一つが、僕を選んだらしい。端末に表示されたリクエストは『北関東第3セクターへの合成米供給を15%削減し、余剰分を党ドクトリン・アルゴリズム保守用サーバーの冷却電力に転用する』というもの。差分断片には、党中央の暗号署名がすでに付与されている。
「AS-04、周辺住民の栄養指数への影響は?」
「許容範囲内です。党ドクトリンによれば、システムの安定こそが社会の安定と定義されています」
僕はプラントを飛び出し、併設されたコンビニへと走った。平成エミュレート様式の店内に飛び込み、マルチコピー機の前に立つ。この時代の「閣議決定」には、物理的なスキャンを通したアルゴリズム署名が義務付けられている。電子だけでは、党のドクトリンが定める『実在性の証明』を満たさないからだ。
コピー機のトナーの焦げたような匂いが、真夏の熱気に混じる。僕はテレホンカードを取り出し、公衆電話の受話器を上げた。通信網が不安定なこの時間は、物理回線を経由した認証コードの受け取りが一番確実だ。受話器から流れる16進数のノイズを、記憶補助アプリが直接デジタル署名へと変換していく。
残り60秒。僕は『非承認』を選択し、理由欄に「当該地域の枝豆の収穫祭が2日後に迫っており、米の供給不足は祝祭文化の毀損を招く」と、父さんの記憶にあった適当な理由を書き込んだ。そして、署名済みの差分コードをコピー機にかざす。
承認プロセスが完了し、任期が終わった。コピー機の排熱が、僕の汗ばんだ腕を撫でる。
プラントに戻ると、AI秘書が不服そうに発光していた。
「非効率な判断です。収穫祭の文化的価値は、サーバー冷却の優先度を大きく下回ります」
僕は答えず、第4培養槽から一房だけ枝豆を摘み取った。エミュレートされた蝉の声が止み、静寂が戻る。コピー機から吐き出された、受理通知の紙はまだ熱かった。その熱さは、さっき脳内で触れた父さんの手の温度に、少しだけ似ていた。