MOが飲み込む、日付なき契約

──平成0x29A年 日時不明

 窓のない契約ブースの中、空調の低い唸りだけが響いている。私はスマートグラスの位置を指で直し、目の前の男を見据えた。男は脂汗を浮かべ、パイプ椅子の上で小さくなっている。視界の端、グラスのAR表示に「信用スコア:条件付き承認」の文字が、ガラケー時代のドット絵のようなフォントで点滅していた。

「佐伯、迷うな。判を押させろ」

 右耳のインプラントから、堂本さんの声がした。私の教育係であり、三年前に過労による心不全で他界した元上司だ。今は私の思考補助エージェントとして、脳内で叱咤を続けている。ただ、今日の堂本さんはどこかおかしい。声のピッチが時折、水に濡れたように歪むのだ。

「……手続きを進めます」

 私はデスクの上のMOドライブに、男が持参したディスクを差し込んだ。カシャッ、ウィーン、という懐かしい駆動音が、静寂なブースに響く。平成初期の規格であるMOディスクは、改竄不可能な物理メディアとして、この金融特区では神聖視されている。ブロックチェーンの秘密鍵も、党ドクトリンの署名アルゴリズムも、結局はこのプラスチックの殻の中で回る磁性体に依存しているのだ。

 スマートグラスの右上に現在時刻が表示されているはずだが、そこには『--:--』という欠損表示が浮かんでいるだけだった。ここ数日、システム全体の日時同期がおかしい。今が朝なのか夜なのか、あるいは何月なのかさえ、曖昧になりつつある。

「位置情報ビーコン、感度良好。座標固定完了」

 私はデスクの隅に置かれた小さな六角形の端末を確認した。緑のLEDが明滅している。このビーコンが、ここが正規の契約場所であることを証明し、MOへの書き込み許可を出す。すべてが儀式的で、すべてが冗長だ。

「おい、早くしろ。回覧板が詰まってるぞ」

 堂本さんの声が焦りを帯びる。その言葉と同時に、ブースの仕切り板の下から、クリップボードが差し込まれた。「紙の回覧板」だ。隣のブースで行われている別の契約担当者が、検印を押して回してきたのだ。金融特区の相互監視ルール。隣人の契約を隣人が保証し、その連鎖で信用を担保する。私はボールペンを取り、回覧板の『閲覧・承認』欄に自分のハンコを押し、男に突き出した。

「ここにも署名を。あなたの契約が、隣の誰かの担保になります」

 男は震える手で回覧板を受け取り、署名する。その様子を眺めながら、私は耳の中の堂本さんに問いかけた。

「堂本さん、この契約、リスク高すぎませんか。担保割れの可能性が……」

「関係ない。通せ」

 堂本さんの声が、急に冷徹なものに変わった。生前の彼なら、「石橋を叩いて壊せ」と言うほど慎重だったはずだ。

「でも、規約第4条に抵触する恐れが」

「佐伯。お前はまだ、自分が『生きてる』と思ってるのか?」

 ドキリとした。心臓が跳ねる音と、MOディスクの回転音が重なる。堂本さんの言葉の意味を咀嚼しようとしたが、思考が滑る。

「……え?」

「なんでもない。ノイズだ。気にすんな。ほら、書き込みが終わるぞ」

 堂本さんの口調は、いつものぶっきらぼうなものに戻っていた。だが、今の言葉は明らかに、私の知っている堂本さんの出力ではない。エージェントの人格データが劣化しているのか、それとも別の何かが混線しているのか。

 MOドライブのアクセスランプが激しく点滅し、やがて消灯した。イジェクトボタンを押すと、熱を帯びたディスクが吐き出される。これで契約は成立した。男はディスクをひったくるように掴み、逃げるようにブースを出て行った。

 私は残された紙の回覧板を手に取り、反対側の隣のブースへスライドさせる。壁の向こうから、誰かがそれを受け取る気配がした。スマートグラスの時刻表示を見る。やはり『--:--』のままだ。

「いい仕事だったぜ、佐伯」

 耳元で堂本さんが笑う。その笑い声の奥に、ザザッという砂嵐のような音が混じっていた。私はふと、自分の手を見る。ボールペンのインクが指に付着している。これは現実だ。けれど、さっき堂本さんが言った言葉が、澱のように胸に残っていた。

 本当に、生きているのはどちらだろうか。MOの中に吸い込まれたデータと、この閉鎖されたブースで判子を押し続ける私。その境界線が、日付のない時間の中で、曖昧に溶けていくような気がした。