朱肉の監査とメダルの残響

──平成0x29A年06月12日 18:50

終業時刻を示すチャイムが、天井のスピーカーからかすれて響く。
第5住民サービスブロック窓口のカウンターには、未だ山のように書類が積まれていた。申請書、証明書、監査報告。紙の束に紛れて、使い古された共有型バッテリーがスマホに辛うじて給電している。

「遥、その『戸籍謄本交付申請』、印影が少し傾いているわね。第0x41B内閣ユニットの監査基準に引っかかるわよ」

耳元で、祖母のイチエの声がした。エージェントデバイスに表示された彼女の顔は、生前の面影そのままに厳しい。

「わかってるよ、おばあちゃん。でも、これだけ件数があるのに、毎回完璧な印影なんて無理だよ。それに、QRコード決済で手数料払ってる人に、紙とハンコを要求するの自体がナンセンスじゃない」

「馬鹿を言いなさい。形式こそ、秩序の礎よ。党ドクトリンが定める手続きに、あなた個人の感情など入り込む余地はないわ。分散ストレージに記録されるデータも、最終的にはこの印影で実体が担保されるのよ」

イチエは元書道家で、その筆跡の美しさには定評があった。だからか、ハンコ一つにも尋常ならざるこだわりを見せる。このアナログな道具が、最先端の連鎖システムと共存しているのが、この平成0x29A年の日常だった。

今日の監査官は特に厳しかった。先日導入されたばかりの「新ドクトリン解釈ガイドライン」に基づき、過去3ヶ月分の申請書類がランダムにピックアップされ、印影の角度、朱肉の均一性、押印位置の微細なズレまでAIで精密にチェックされたのだ。

「はい、はい。もう慣れてるってば」

私は溜息をつき、問題の申請書を引っ張り出した。古い木製のハンコを丁寧に朱肉につけ、息を止めて、書類の所定の位置に押す。ペタリ、という湿った音が、妙に事務室に響いた。

「よし。今度は完璧ね」

イチエの声が少しだけ穏やかになった。その声に、私は心の奥底で安堵する。彼女は、生きていた頃も、私が何かを習い事の先生に提出するたびに、同じように厳しくチェックしてくれたっけ。

共有型バッテリーの残量警告が点滅し始めた。もう帰ろう。疲労困憊で、私は共有ロッカーに私物を詰め込み、フロアの消灯スイッチを押した。

帰り道、第3ブロックの古いゲームセンターの前を通りかかった。煌びやかなネオンと、電子音がけたたましい。中には、まだ仕事終わりの人々が、メダルをジャラジャラと鳴らしながら、スロットやクレーンゲームに興じている。

「遥。昔、あなたと来たこともあったわね、ここ。あの頃のメダルは、もっと重かった気がするわ」

イチエが懐かしそうに言う。彼女の生きていた時代には、まだプラスチックではなく金属のメダルが主流だったらしい。今のメダルは、環境負荷軽減のためか、軽くて薄い、プラスチック製だ。

「そうだね。おばあちゃん、いつも『一つ一つ、確実に積み重ねるのが肝心よ』って言ってたよね。メダルも、ハンコも、全部」

私は立ち止まり、ゲームセンターのガラス越しに中を覗いた。若者たちが、軽やかなプラスチックメダルを惜しげもなく投入し、一攫千金を夢見ている。彼らにとって、メダルの重みやハンコの厳格さは、単なるゲームのルールや手続きの一つに過ぎないのだろう。

私は自分の指先を見つめる。この指が、今日一日で何百回とハンコを押し、何千回とデータを入力しただろう。一つ一つの行為が、意味を持たない無味乾燥な作業に思えていた。しかし、祖母の言葉を思い出すと、それは全て、未来へと続く連鎖の、確かな一打のように思えてきた。

そして、この不条理な「平成」を、彼女の言葉と共に、私が受け継いでいくのだ。軽いメダルが積み重なり、いつか大きな山を築くように。私もまた、この無意味に見える反復作業の中で、何かを確かに積み重ねていくのだろう。

私は小さく微笑み、再び歩き出した。疲労は変わらないが、心に僅かな、しかし確かな重みが宿っていた。