量子錠の夜、自転車の鍵が開かない

──平成0x29A年04月19日 00:50

午前一時前の駐輪場は、蛍光灯が一本だけ点滅していて、残りは死んでいた。

俺はeペーパー端末を自転車のハンドルに押し当てたまま、三度目の認証失敗の音を聞いた。量子乱数ロックの赤いランプが、規則正しく点滅している。

「正輝、それ午前零時で鍵の周期が更新されてるよ」

右耳のイヤホンから、兄貴の声が聞こえた。正確には、三年前に配送トラックの横転で死んだ兄貴の声だ。近親人格エージェント。声の癖まで本人そのままで、ときどき本当に困る。

「わかってる。でも端末が新しい鍵を受け取ってない」

俺はeペーパーの画面を指で叩いた。灰色の表面に、回転するローディングのアイコン。その下に「党ドクトリン署名を検証中」の一行。いつもなら一瞬で通るやつだ。

「署名サーバ、また落ちてんじゃないの」兄貴が言った。「最近多いだろ。中間鍵が漏れてるって、お前の同僚も言ってたじゃん」

「声でかいよ、兄貴」

駐輪場には俺しかいない。けれど反射的にそう言った。署名アルゴリズムの脆弱性は、もう公然の秘密みたいなものだった。駐輪場のロックなんて末端も末端だが、鍵の発行元を辿れば同じ党ドクトリンの署名木に行き着く。根が腐れば枝も枯れる。

俺は宅配ステーションの夜勤明けで、脚が重かった。第14流通ブロックの中継所で、午後九時から翌朝の二時まで荷物を仕分ける。自律カートが運ぶ分を人間が最終チェックする仕事。働かなくても暮らせるらしいが、俺は身体を動かしていないと眠れない性質だった。兄貴もそうだった。

自転車の前カゴに、今日の帰りにコンビニで買ったものが入っている。カップ麺と、缶チューハイと、来年度の紙のカレンダー。四月始まりのやつ。壁に何か貼ってないと部屋が寂しいから買った。カレンダーの表紙には富士山の写真があって、「平成」の文字の横に西暦換算がなかった。いつものことだ。

端末が震えた。画面の文字が変わる。

「第0x7A120内閣ユニット──閣議招集。任期:5分間」

「出た」兄貴が笑った。「総理大臣だ、お前」

「今かよ」

画面にリクエスト一覧がずらりと並ぶ。差分断片。公共照明の輝度変更申請、ゴミ収集ルートの微調整、駐輪場の──。

俺は目を止めた。

「駐輪場量子乱数ロック:署名検証の暫定バイパス許可申請」。

提出元を見ると、第14流通ブロック。俺が今立っている場所だ。申請者の欄には、知らない名前。だが備考に「署名木の中間鍵が公開リポジトリに流出済。緊急の代替認証経路を要する」と書いてあった。

兄貴が黙った。俺も黙った。

承認すれば、この駐輪場の鍵は開く。俺だけじゃなく、ここを使う全員の。ただし、それは署名が壊れていると公式に認めることになる。党ドクトリンの幹に亀裂が入ったと、末端のロックから証明してしまう。

ハンドルに掛かった紙札が風で揺れた。駐輪場の管理番号が手書きで「3-22」と書いてあるやつ。何年も前から同じ札で、雨に濡れて端がふやけている。

「兄貴」

「ん」

「承認していいと思う?」

間があった。兄貴は生きていたときも、大事なことには少し間を置く人だった。

「鍵、開かないと帰れないだろ」

俺は親指で承認ボタンに触れた。eペーパーの画面が白く光って、消えた。

量子乱数ロックの赤いランプが、緑に変わった。

カチ、と金属が外れる音。

俺は自転車を引き出して、カゴの中のカレンダーを押さえた。富士山の写真がつるつると冷たかった。

五分間の任期が終わる通知は、最初の信号を渡るころに届いた。

夜風が頬に当たって、ペダルを踏む足の裏に、鍵が外れたときの振動がまだ残っていた。