水耕区画の静かな嘘
──平成0x29A年11月15日 16:00
カチリ、とMDプレーヤーの蓋を閉める。再生ボタンを押すと、ヘッドフォンから懐かしいギターの音が流れ出した。湿った空気とLEDの紫光に満たされた農場タワーには、少し不似合いな選曲だったかもしれない。
「拓也、その曲、飽きないのか」
耳元のインカムから、兄さん――健介の声がする。俺のパーソナル・エージェントだ。
「兄さんこそ、俺のプレイリストに文句言うの、飽きないの」
軽口を叩きながら、俺は水耕栽培ベッドを滑るように移動する。青々としたレタスの葉を指で弾き、近傍通信タグにリーダーをかざす。生育データが視界の隅にポップアップした。順調だ。
「それより、B-7区画のトマト、糖度チェックは済んだのか?俺のログだと、そろそろのはずだが」
「昨日やったよ。ちゃんと記録も同期したはずだけど」
「おかしいな。こっちの記録補助には反映されてない。お前の作業が雑だから、デジタルツインに弾かれたんじゃないのか」
またか。兄さんのエージェントは、時々こうして現実との同期が遅れる。法定倫理検査が近いせいだろうか。
俺は黙って、自分の管理端末から農場全体のデジタルツインを呼び出した。立体的に表示された栽培区画のB-7をタップすると、昨日の日付で俺の作業記録が確かに残っていた。間違いなく、兄さんの側の問題だ。
「ほら」と、俺はその画面を兄さんの仮想視野に共有した。
一瞬の沈黙。健介は気まずそうに咳払いをした。
「……ふん。まあ、いい。次だ、次」
その時、ふと管理通路の隅にあるポストに、一枚の紙が挟まっているのが見えた。懐かしい質感の、薄い青色の紙片。ドアの隙間から差し込まれたガス検針票みたいだ。
手に取ると、それは『第12アグリキューブ定期メンテナンス通知』だった。紙のくせに、隅にはちゃんと近傍通信タグが埋め込まれている。
リーダーを当てると、詳細が浮かび上がった。
『項目:G-4区画・栄養供給ユニット/高圧レギュレータ弁の交換』
指が、少し冷たくなった。G-4区画。四年前、兄さんが死んだ場所だ。
「……なあ、兄さん」
俺は、努めて平静な声で尋ねた。
「G-4区画の圧力弁のこと、覚えてるか?」
インカムの向こうで、健介の息をのむ気配がした。やがて、彼は自信に満ちた声で答える。
「ああ、覚えてるさ。俺が最後に調整したところだ。あの日の作業は完璧だった。今でもはっきり思い出せる」
俺は、管理端末の記録をそっと閉じた。デジタルツインに残る事故調査報告。そこには『設計閾値を超えた不適切な手動調整による弁の破断』と、はっきりと記されているというのに。
兄さんの記憶は、更新されていない。彼は、自分の調整が完璧だったと信じたまま、四年間、俺の隣にいる。
「そうか。完璧、だったか」
「当たり前だ。心配するな、拓也。今回は俺がデジタルツイン側でしっかり監視してやる。お前に同じミスはさせないからな」
その言葉は、温かいはずなのに、背筋を這い上がってくる何かがあった。
兄の善意は、同じ悲劇への招待状じゃないのか。
俺は何も言えず、交換用のレギュレータ弁が入った工具箱を、ただ強く握りしめた。