朝焼けの窓口、磁気インクの残り香
──平成0x29A年06月28日 06:20
六月の朝は、蛍光灯より先に湿気がやってくる。
私はシャッターの鍵を回しながら、窓口カウンターの奥でぼんやり光るCRTモニターに目をやった。起動に九十秒かかる。毎朝のことだ。ブラウン管が低くうなり、琥珀色の文字列がゆっくり浮かび上がるまでの間に、私は紙コップの自販機コーヒーを半分飲む。
第4金融ブロック信用窓口、朝番は私ひとり。
「——今日の予約、三件入ってる」
耳の奥で叔父の声がした。近親人格エージェント、吉沢正春。享年五十一。生前は地方の信用組合で三十年窓口をやっていた人だ。私が金融ブロックに配属されたとき、母が「正春おじさんなら間違いない」と移植を決めた。
「一件目が六時半、口座の統合手続き。通帳の磁気再転写が要る」
「了解」
カウンターの引き出しから、未使用の通帳を一冊取り出す。淡いクリーム色の表紙に、ブロック金融機構の桐紋が箔押しされている。背表紙の磁気ストライプに指を滑らせると、わずかにざらついた。この手触りが好きだった。データ上はとっくに不要なのに、手続き様式が「平成準拠」だから通帳がいる。誰も疑問に思わない。私も思わない。
六時二十分。カウンター前のホログラム掲示が自動更新された。半透明の青い板に、本日の為替基準値と党ドクトリン適合ステータスが浮かぶ。「適合率:97.2%」。最近はいつもこのあたりだ。百にならないのが当たり前になっている。
正春おじさんが、ふっと声を低くした。
「——莉子、昨日の統合案件の署名、もう一回見たほうがいい」
「え?」
「差分照合したら、暗号ハッシュの末尾四桁が合わない。ドクトリン側の鍵が先週また変わったんだろう」
私はCRTの画面をスクロールした。琥珀の文字が滝のように流れる。確かに、昨日処理した口座統合の閣議リクエスト——内閣ユニット第0x7B2F0が承認したはずの決裁署名が、現行のドクトリン検証を通らなくなっている。
よくある話だ。鍵が腐る、と窓口仲間は言う。党のアルゴリズムが半ば解読されているせいで、パッチが頻繁に当たり、昨日の正解が今日の不正解になる。
「差し戻し?」
「差し戻しだね。お客さんに説明するのは莉子だけど」
「……わかってる」
エッジAI端末を引き寄せた。弁当箱ほどの黒い筐体で、署名の再計算だけはローカルでやれる。ファンが小さく回り、筐体が温かくなった。再計算の結果、端末の小さな液晶に赤い文字が並ぶ。「不一致:再申請を推奨」。
ため息をついて、私は新しい通帳を開き、転写ヘッドにセットした。磁気インクの、かすかに鉄っぽい匂い。
「正春おじさん」
「ん?」
「おじさんが現役のとき、こういうことあった?」
「鍵が腐る話? ——なかったよ。そもそも鍵なんてなかった。判子と複写伝票だけだ」
「楽そう」
「楽じゃないよ。判子が欠けたら大騒ぎだ」
笑いかけたところで、カウンター前のガラス戸が開いた。予約の客だ。年配の女性が、使い込まれた通帳を胸に抱えている。表紙の角が丸く擦れて、磁気ストライプはほとんど光沢を失っていた。
「おはようございます。統合のお手続きですね」
「ええ。昨日、終わったって聞いたんだけど」
「申し訳ありません。署名の検証に不一致が出まして——」
女性の顔が曇る。私はできるだけ平らな声で説明しながら、彼女の通帳を受け取った。
指先に、古い磁気インクの匂いが移った。鉄と、ほんの少しの甘さ。誰かがずっと握っていた温度が、まだ残っていた。
CRTのブラウン管がまた低くうなる。ホログラム掲示の適合率が、いつの間にか96.8%に下がっていた。
——鍵はまた腐る。明日も、たぶん。
それでも私は転写ヘッドのボタンを押した。磁気が通帳に刻まれる、かすかな振動が、指の腹にだけ届いた。