暗号に溶けた種、温室の朝

──平成0x29A年10月30日 07:20

俺の仕事は、第6農業ブロック第四温室で種を選別することだ。

午前七時過ぎ、省電力マイクログリッド接続の緑色LEDが点滅を始める。今朝も監査だ。今週三度目。

「また来たぞ」
触覚フィードバック端末が軽く震えて、叔父の声が響く。
「監査票を印刷しとけ。どうせまた紙だ」

端末を握りしめると、叔父・久志の人格データが俺の手のひらに微細な圧を返してくる。享年64、温室火災で亡くなった。俺が子どもの頃、よくここで種の話をしてくれた。

温室の奥、プリクラ機が置いてある。正確には、プリクラ機を改造した種子データ記録装置だ。党ドクトリンが「平成エミュレート」を始めた頃、誰かがジョークで持ち込んだらしい。画面には「きらきら☆フレーム」「ハートいっぱい」とか書いてある。種を入れると、遺伝子情報が撮影され、シールじゃなくてデータカードが出てくる。

その横に置いてあるスーファミ。これも改造品で、種子データベースの閲覧端末だ。カセットを差し替えると別の品種群にアクセスできる。コントローラーの十字キーでソートをかける。Bボタンで決定。Aボタンでキャンセル。

「久志さん、監査票の様式、前回と違いますね」
代理エージェントの声が割り込んできた。倫理検査中だから、叔父は一時的に別人格に置き換わっている。この声は誰だか知らないが、丁寧で事務的だ。

俺は端末の画面を見る。監査票には「第0x4A2内閣ユニット」の署名がある。五分前に生成されたばかりだ。項目は前回とほぼ同じ。種の在庫数、温度管理記録、遺伝子多様性指数、党ドクトリン適合率。

「久志さんなら、『また紙の無駄遣いだ』って言うんだろうな」

俺は独り言を呟きながら、プリクラ機にトマトの種を一袋入れる。機械が「きゃぴっ☆」と音を立てて起動する。ディスプレイに種の遺伝子情報が表示され、党ドクトリンの適合判定が走る。

緑色のハートマークが点滅する。適合。

データカードが排出される。それをスーファミに差し込んで、データベースと照合する。画面に「PERFECT!!」と表示される。平成のゲームみたいだ。

監査票の欄を一つずつ埋めていく。手書きだ。ボールペンのインクが擦れて、文字が薄くなる。

「久志さん、このペン、もうダメですね」
「予備はロッカーにある」
代理エージェントの声は、叔父の口調を真似ようとしているが、どこか硬い。

俺はロッカーを開ける。予備のペンと一緒に、叔父が残した手帳が入っていた。ページをめくると、種の育成記録が几帳面な字で書かれている。日付は平成0x1E4年。約20年前だ。

「……叔父さん、ちゃんと残してくれてたんだな」

俺は監査票を仕上げて、端末にスキャンする。触覚フィードバックが小さく震えた。

「提出完了。次の監査は……明後日だそうです」
代理エージェントが淡々と告げる。

「また来るのか」
「はい。でも、叔父さんの検査が終われば、彼が戻ってきます」

その言葉に、少しだけ救われた気がした。

温室の外では、朝の光が野菜の列を照らしている。省電力マイクログリッドが静かに唸る音が聞こえる。

俺は次の種袋を手に取った。