カセットの砂嵐と、解読される夜明け

──平成0x29A年02月25日 06:30

午前六時半。まだ薄暗い部屋の片隅で、私は黙々と作業台に向かっていた。
目の前には、埃を被ったカセットデッキ。アジテーションが吹き荒れるノイズの中から、か細い歌声が聞こえてくる。クライアントからの依頼品だ。インディーズバンドのデモテープをデジタルアーカイブに変換する。

「健太、そこは少しゲインを上げるべきだ。あの時代のマスタリングは音圧が低かった」

頭の中で、父のエージェント、孝司の声が響く。享年55、交通事故死。元オーディオメーカーのエンジニアだった父の知識は、この平成エミュの時代には重宝された。アナログメディアの物理的な癖まで知り尽くしている。

「分かってるよ、父さん」

私は指先で精密な調整を施す。その瞬間、ディスプレイの右上にポップアップが現れた。
『第0x3F2A内閣ユニット、緊急閣議決定。著作権保護アルゴリズム更新に伴い、時間貸しCPUの利用規約が自動改訂されました。現行の作業環境ではセキュリティリスクが発生する可能性があります』

ちっ、またか。第402ヘゲモニー期になってから、党ドクトリンのアルゴリズム署名が異常な頻度で更新される。その度に、システムは小さな混乱をきたす。著作権ポリシーなど、細かな制度の差分断片が、ランダムな5分間総理の元で承認されるたびに、こんな通知が飛んでくるのだ。

「困ったもんだな。これで三度目だぞ、今月は」

「心配するな、健太。あのアルゴリズムは半ば公然と解読されている。古いOSの仮想環境を立ち上げ直せばいい。著作権保護の適用範囲外になる」

父の助言に従い、私は瞬時に別の仮想環境を立ち上げた。古いWindowsのデスクトップが映し出される。こんな不便を回避するために、複数の時代のOSを使いこなすのは、もう日常の一部だ。本来は働かずとも暮らせる社会なのに、こうして平成的生活を送るために、こんな手間がかかる。

少し休憩しようと、私は分散SNSのタイムラインを開いた。友人たちが夜明け前の投稿を流している。友人の一人、ミキが投稿した写真に目が留まった。使い捨てカメラで撮ったらしい、ぼんやりとした集合住宅の夜景だ。どうやらアナログ現像に凝っているらしい。
しかし、写真の隅には、自動挿入されたAR広告のバナーが重なり、せっかくの風景が台無しになっている。ミキの「せっかくのノスタルジーが台無しだよ!」という愚痴が添えられていた。

私も昔、使い捨てカメラで撮った写真が何枚か手元にある。引き出しから引っ張り出し、現像されたフィルム写真の束を広げた。セピア色の写真には、子供の頃、父と行った公園の風景が焼き付いている。
手触りのある紙、光の粒子の粗さ。それは、デジタルデータのように簡単に改変されたり、上から広告が被せられたりすることのない、確かな実体だった。

「このカセットテープの砂嵐も、この写真の粒子も、デジタルのエラーノイズとは違う。もっと人間的な、生きたノイズだ」

父が言う。早朝の薄明かりの中、私は手のひらに乗せた写真の温もりを感じていた。半ば公然と解読され、その実体を誰も知らない「党」のアルゴリズムが、この世界のすべてを動かしているというのに、なぜかこの古い写真の方が、よほど真実味を帯びているように思えたのだ。
カセットテープの再生ボタンを押し直す。再びノイズの中から、か細い歌声が響き渡った。まるで、遠い過去から届くメッセージのように。