ブラウン管の揺らぎと、手書きの証明
──平成0x29A年12月26日 21:00
薄暗いバックヤードで、僕は山積みの書類に向かっていた。
平成0x29A年。まさかこんな作業が復活するとは、思ってもみなかった。
指先に、インクの冷たい感触が残る。
「健太、またこんな骨董品いじってるのかい?」
脳内で、祖父・吾郎の声が響く。僕の近親人格エージェントだ。
享年75で老衰死した歴史研究家。この資料館の元学芸員。
「仕方ないよ、吾郎じいちゃん。ブロックチェーン投票で承認された政策が、急にアナログでの差分断片提出を求めてくるんだから」
僕は半ば諦め顔で、また一つ、書類にハンコを押す。
朱肉の赤が、古い紙にじわりと染みる。
部屋の隅に置かれたブラウン管テレビが、砂嵐混じりで何かを映している。音声はオフ。
埃をかぶったチューナーは、たぶん平成初期の製品だ。
画面の揺らぎが、この薄暗い空間を一層過去へと引きずり込んでいるように見える。
「まったく、党ドクトリンのアルゴリズムも末期だな。解読されたところで、こんなアナログな復古主義に走るとは」
吾郎じいちゃんがため息をつく。彼の知識は、こういうイレギュラーな状況でこそ役立つ。
記憶補助アプリで過去の事例を検索しようとすると、吾郎じいちゃんが制止した。
「そんなものに頼るんじゃない。自分の目で見て、手で触れるんだ」
僕は、MDプレーヤーから流れる2000年代のポップスに合わせて、頭を軽く振った。
ポケットには、サブスク契約済みのガラケー型端末。
90年代と00年代と、そして今が、ここで混線している。
今日の作業は、過去の「政策変更リクエスト」に対する再審査の書類整理だ。
膨大なデジタルデータの中から、なぜか特定のリクエストだけが、物理的な書類として僕の目の前に現れる。
そして、その内容を精査し、最終的な「承認」または「非承認」を、このハンコで証明する。
ふと、一枚の書類に目が止まった。
そこには、確かに「承認済」とブロックチェーン署名が記されている。
しかし、僕が今、ハンコを押そうとしている欄には「非承認」と明記され、その理由として「現行ドクトリンとの齟齬」と手書きで書き加えられている。
「これ、おかしくない?」
思わず声に出すと、吾郎じいちゃんが静かに言った。
「ほう、気がついたか。お前が今押しているハンコは、かつての閣議決定をも覆す力を持っている、ということだ」
誰が、なぜ、このような矛盾した手続きを命じたのか。
党のアルゴリズムが解読され、その権威が揺らいでいるのは知っていた。
だが、こんな形で、僕の、たった一本のハンコが、システムの根幹を揺るがすなど、想像もしていなかった。
ブラウン管テレビの画面が、突然ノイズまみれになった。
ザーッという音はしないが、画面の光が、この暗闇の中で不気味に明滅する。
まるで、この世界そのものが、砂嵐に飲まれようとしているかのように。
僕は、目の前の「非承認」と書かれた書類に、震える手でハンコを押した。
インクが、デジタル署名の上に、どろりと広がる。
その瞬間、僕の記憶補助アプリが、微かなエラー音を立てたような気がした。
気のせいだろうか。
いや、違う。僕の記憶は、確かに今、何かを上書きされた。
デジタルがアナログに、そして未来が過去に、飲み込まれていくような、そんな不穏な夜だった。