同期不全のドアの向こう

──平成0x29A年 日時不明

僕の視界の隅で、申請ステータスを示す円グラフが、もう何度目かわからない回転を終えて停止した。結果は『第0x881A内閣ユニットにてドクトリン署名不整合。リクエスト棄却』。ため息も出ない。

『またかね、浩介』

網膜ディスプレイに、半透明の祖父が腕を組んで現れる。僕のパーソナル・エージェント。生前は大学で哲学を教えていた、議論好きのインテリだ。

「まただよ、じいちゃん。次世代OSのコアモジュール仕様策定、これで何回目の棄却だ? コンソールのタイムスタンプはとっくに文字化けしてるから、もうどのくらい時間が経ったのかも分からない」

『そもそも、数十万の内閣ユニットすべてから承認を取り付けるという発想自体が、非効率の極みだろう。党のアルゴリズムが正常だった頃の遺物だ』

祖父の言う通りだった。僕らのいる第9研究開発ブロックは、あらゆるインフラの基幹システムを開発しているが、その成果物はすべて、ブロックチェーンの彼方に霞んで見える無数の政府もどきの承認なしには実装できない。そして、その承認アルゴリズムはもう壊れかけている。

「…橘くん、いるかい」

プロジェクトリーダーの田中さんが、ひょっこりとパーティションから顔を出した。その手には、僕らの世代にとっては博物館の展示品のようなものが握られている。プラスチックのボードに紙が挟まれた、例のやつだ。

「回覧板です。もう、ドクトリン署名は待ってられない。せめてこのブロック内の主要メンバーだけでも、アナログで合意形成を進めておこうと思ってね」

差し出された紙には、インクが滲んだ手書きの署名がいくつも並んでいた。僕は無言でペンを取り、自分の名前を書き加える。インクが紙に吸い込まれていく感触が、妙にリアルだった。

研究室の息苦しさに耐えかねて、僕は自動運転シャトルに乗り込んだ。居住区まで戻って少し頭を冷やそうと思ったのだ。シャトルは音もなく発進し、窓の外を同じような景色が流れていく。いつから夜なのか、それともずっと夜なのか。誰も気にしなくなった。

僕はワイヤレスイヤホンを耳にはめ、いつもの深夜ラジオのストリーミングを再生した。低く落ち着いた声のパーソナリティが、リスナーから届いたというメールを読み上げている。

『……ペンネーム「終わらない残業」さんから。『僕の部署では最近、紙の書類が復活しました。上司はこれを「温故知新」だなんて言っていますが、ただのシステム不全の穴埋めにしか思えません。いつになったら、この長い夜は明けるのでしょうか』……はは、大変ですねえ。でも、夜が長いなら、その時間を楽しむしかないんじゃないですかね』

他人事なコメントが、やけに心に響いた。楽しむ、か。こんな停滞を。

シャトルが居住区のターミナルに着き、僕はとぼとぼと研究棟へ引き返した。ラボの前に立ち、スマートドアにIDをかざす。だが、分厚い金属の扉はうんともすんとも言わない。

『認証エラー。時刻情報との同期に失敗しました』

無機質な合成音声が、僕の絶望を煽った。

「冗談だろ……」

『浩介、待ちなさい』祖父が僕を制止した。『よく耳を澄ませてごらん。中から、音がしないか?』

言われて耳をドアに押し付ける。ガリガリ、と何かをこじるような金属音と、くぐもった人の声が聞こえた。

「……もう少しだ、そこをこじ開けろ!」

田中さんの声だ。

やがて、バキン!という大きな音と共にロックが外れ、スマートドアが物理的に、力ずくで開けられた。隙間から顔を出した田中さんは、汗だくだった。

「橘くんか! 悪い、基幹システムが時刻同期に失敗して、全部門がロックアウトされた。もうコンソールは使えない」

田中さんは疲れ切った顔で、それでも少しだけ笑って見せた。

「だが、これだけは確保したぞ」

彼が掲げて見せたのは、あの紙の回覧板だった。薄暗い廊下の照明に照らされた紙の上には、僕のものを含め、チーム全員の署名が揃っていた。

システムは死んだ。時計は止まった。だけど、僕らの合意は、この一枚の紙の上に確かに存在している。夜が明けるのかは分からない。でも、この紙切れ一枚分の、小さな一歩だけは、確かに踏み出せた気がした。