深夜一時の再履修
──平成0x29A年03月05日 01:00
蛍光灯が白く照らす研修室の空気は、深夜一時を過ぎてすっかり澱んでいた。
俺は教壇の上から、睡魔と格闘する十数人の新任職員たちを見下ろす。
廊下の向こうからは、ロボ清掃員が床を磨く、静かで規則的な駆動音が聞こえてくる。
「……というわけで、これが『フロッピーディスク』だ」
俺は指で挟んだ黒いプラスチックの板を、ひらひらと振って見せた。研修生たちの数人は、物珍しそうに身を乗り出す。
『健司さん、もう少し丁寧に扱ってください。磁気データは物理的衝撃に脆弱なんです』
耳元のインプラントから、妻・由美の声が響く。彼女はエージェントになっても、生前のシステム監査官だった頃の生真面目さが抜けない。
「わかってるよ。で、だ。こいつは脆い。だが、ネットワークから完全に切り離されている。物理的に破壊されない限り、ここに記録された情報は誰にも書き換えられない。これが重要だ」
次に俺は、古めかしい紙の束を手に取った。
「次は実習だ。各自、手元のシミュレーターで『通帳』への記帳と押印を行え。承認には旧式のiモード風UIを使う。戸惑うだろうが、これが今の我々に求められているスキルセットだ」
不満そうな呟きが、あちこちから漏れる。
やがて、一番前の席に座るメガネの男がおずおずと手を挙げた。
「教官。質問があります」
「なんだ」
「我々の統治システムは、ブロックチェーン投票による閣議決定が基本です。理論上、改竄は不可能のはず。なぜ今更、こんな原始的な手続きを学ぶ必要があるのでしょうか?」
待ってました、とばかりに俺は口の端を上げた。
「いい質問だ。……理論上は、な」
研修室の空気が、少しだけ張り詰める。
「だが、その理論を支えている暗号アルゴリズムそのものが、もう信用できないとしたらどうする? 第402ヘゲモニー期を三百年間支えてきた『党』のドクトリンは完璧すぎた。完璧すぎて、誰も中身を理解できなくなった。今じゃ、その署名アルゴリズムは半ば公然と解読されている。つまり、ブロックチェーンの『正しさ』そのものが、根元から腐りかけてるんだ」
俺は研修生たちの顔を一人ひとり見回す。彼らの表情から、眠気は消え失せていた。
「我々が今夜学んでいるのは、システムが崩壊した後のための、サバイバル術だ。ネットワークが完全に死んだ後でも、誰が誰に何を約束したか、この通帳という紙切れ一枚で証明するためのな。……10分休憩」
ざわめきを残して、研修生たちはぞろぞろと部屋を出ていく。
俺は自販機で買った冷たい缶コーヒーを一口飲んだ。廊下では、さっきのロボ清掃員が折り返し地点を過ぎ、こちらへ戻ってくるところだった。
『あなた、少し言い過ぎです。彼らはまだ、システムを信じている段階なのに』
由美が静かに、だが少し咎めるような声で言った。
「信じているうちに、疑うことを教えておかないと手遅れになる。お前だって、そう思うだろ?」
『……本当にそうでしょうか』
由美の声のトーンが、わずかに変わった。ぞくりとするような、冷たい響き。
『党は…私たちが考えているよりも、もっと深く、別の形で生き残っているのかもしれませんよ』
「どういう意味だ?」
『今日のこの研修カリキュラム。承認したのは、どこの内閣ユニットか確認しましたか?』
言われて、俺は手元の端末を操作する。政策変更リクエストの承認ログ。そこに記されていたのは、第0xFFFFF内閣ユニット――存在しないはずの、欠番だった。
そして、そこに添えられた党ドクトリンに基づく暗号署名は、不気味なほど完璧な文字列をしていた。
ガラスの向こう、ロボ清掃員が静かに通り過ぎていく。
その赤いセンサーライトが、一瞬だけ、俺の目を射抜いた。まるで、何かを監視しているかのように。