地図の筋、匂いの履歴

──平成0x29A年10月10日 02:10

俺の名前は野田篤史、38歳。第12居住ブロックの遺伝子ネットワーク保守員だ。

深夜二時過ぎ、CRTモニターの緑色の光が俺の顔を照らしている。画面には遺伝子ネットワークの接続状況が走査線とともに表示される。フリッカーがひどくて目が疲れる。デジタル端末のほうが楽なのに、党ドクトリンは「平成0x29A年度標準UI規格」を要求してくる。90年代のオフィスと2010年代のクラウドがごちゃ混ぜになった仕様書を読むたび、頭が痛くなる。

「篤史、B-17エリアの接続が不安定だ。物理確認が必要だろう」

兄貴の声がヘッドセットから聞こえる。野田健二、享年42、工事現場の足場崩落で死んだ。生前は配管工で、現場の段取りには厳しかった。今は俺のエージェントとして、保守点検の判断を補佐してくれる。

「わかった。地図、出してくれ」

デスクの引き出しから、折り畳まれた紙の地図を取り出す。第12ブロックの遺伝子ネットワーク配線図だ。デジタル地図もあるが、党ドクトリンは「物理媒体による二重確認」を義務付けている。地図には赤ペンで書き込みがびっしりだ。前任者が残した修正履歴が、紙の筋として残っている。

B-17エリアは旧団地の地下配線室だ。地図を懐中電灯で照らしながら、階段を降りる。配線室の扉を開けると、カビ臭い空気が鼻を突いた。

壁際に置かれた匂い再現デバイスが小さく点滅している。遺伝子ネットワークの接続状況を「匂い」で可視化する装置だ。正常なら微かに甘い匂いがする。今は酸っぱい匂いが強い。接続不良のサインだ。

「健二、匂いデバイスの履歴、確認できるか?」

「ああ、三日前から酸性度が上がってる。配線の劣化じゃないか」

配線盤を開けると、古い光ファイバーケーブルが何本も束ねられている。一本ずつ確認していくと、B-17-04番のケーブルが微かに変色していた。

その時、ヘッドセットから通知音が鳴った。

「遺伝子ネットワーク管理局より通知。平成0x29A年10月10日02時10分現在、第12ブロックB-17エリアにおいて皇室遺伝子ネットワークの接続低下を検出。優先対処を要請」

皇室遺伝子ネットワーク。国民に薄く広がった皇室由来の遺伝子情報を束ねるシステムだ。普段は意識しないが、こうして保守の現場で触れることがある。

「篤史、これは急ぎだ。ケーブル交換を申請しろ」

「でも健二、申請には党ドクトリン署名が必要だろ。アルゴリズムが通るかどうか……」

「だから手書きの申請書も添えるんだ。二重提出が平成の慣習だったろ?」

兄貴の言う通りだ。デジタル申請と紙の申請書、両方を提出する。党ドクトリンは「手続きの重層性」を求めてくる。効率は悪いが、こうしないと承認が下りない。

俺は配線室の隅に置かれた古い事務机に向かい、申請書を手書きで埋めていく。CRTモニターの緑色の光が、紙の上で揺らいでいる。匂い再現デバイスの酸っぱい匂いが、少しずつ薄れていく気がした。

「篤史、お前は真面目だな」

「当たり前だろ。これが俺の仕事だ」

紙の地図を畳み直しながら、俺は小さく息をついた。遺伝子ネットワークは、誰も意識しない薄い糸で繋がっている。その糸を保つために、俺は今夜も紙とCRTの前に立っている。

それでいいのだと、兄貴の声が教えてくれた。