雨音の周波数、回転する磁気
──平成0x29A年09月16日 03:00
午前三時、国道沿いの雨は視界を白く塗りつぶしていた。ヘルメットのスピーカーから流れるのは「オールナイト・ニッポン」のジングル。いつの録音かも、あるいはリアルタイムのAI生成かもわからないその深夜ラジオは、俺の孤独な配送業務における唯一の伴走者だ。
電動スクーターのハンドルに固定された武骨なエッジAI端末が、不意に警告音を吐き出した。
『エラー。第4セクター通行料、サブスクリプション決済に失敗しました』
バイザーに投影されたAR表示が赤く染まる。目の前の遮断ゲートは閉じたままだ。
「おいおい、残高はあるはずだぞ」
『兄ちゃん、また“党”の決済サーバーが落ちてるんじゃない? 最近多いよ、インフラの微細骨折』
インカム越しに聞こえたのは、弟の陸の声だ。享年十七。生意気な口調は生前のままで、俺の焦りを逆なでする。
「骨折ならギプスをはめろってんだ。これじゃ遅延ペナルティで今日の売り上げが飛ぶ」
俺はスクーターを路肩に寄せ、雨合羽のポケットを探った。指先に触れたのは、プラスチックの硬質な感触。3.5インチのMOディスクだ。
平成エミュレーションが徹底されたこの社会では、こうした物理メディアが緊急用の認証キーとして機能することがある。もちろん、公式には推奨されていない裏技だが。
「それ使うの? 骨董品じゃん」
「うるさい。お前が死んだ年に買ったやつだ」
端末の側面にあるカバーをこじ開け、埃っぽいスロットにディスクを押し込む。ウィーン、カシャ、という物理的な駆動音が雨音に混じる。磁気ディスクが回転し、読み取りヘッドがデータを拾う振動がハンドル越しに伝わってくる。
『認証バイパス、承認。……ようこそ、平成0x29A年のあばら家へ』
陸がふざけてシステム音声を真似るのと同時に、ゲートが重々しく持ち上がった。
配送先は、旧第3商業区の裏路地にある24時間営業のコインランドリーだった。店内の湿った空気は、柔軟剤と古いエアコンの匂いが混ざり合っている。
カウンターの奥から出てきたのは、夜勤担当の彼女だ。名前は知らない。ただ、毎週火曜のこの時間に、業務用の洗剤カートリッジを届けるだけの関係。
「遅れてすみません。システムの不具合で」
俺は濡れた手袋を外し、端末にサインを求める。彼女は眠たげな目をこすりながら、手元の文庫本を置いた。
「いいえ、大丈夫です。……あの、外、雨すごいですね」
「ええ。ラジオじゃ明け方まで続くって言ってました」
会話が途切れる。店内の乾燥機がゴウンゴウンと低い音を立てている。陸がインカムで『いけ、兄ちゃん。今しかない』と囁いた。うるさい、わかってる。
俺は受け取りサインを受け取った後、ポケットから缶コーヒーを取り出した。さっきの待機中に自販機で買った、温かいやつだ。
「これ、よかったら。……その、いつもお疲れ様です」
彼女は驚いたように目を丸くし、それから少しだけ笑った。
「ありがとうございます。……あの、私、来週もシフト入ってるんで」
それだけ言い残して、俺は逃げるように店を出た。
再び雨の中へ。MOディスクを排出し、ポケットに仕舞う。深夜ラジオのパーソナリティが、次はバラードをかけると告げていた。
「やるじゃん、兄ちゃん」
「黙ってろ」
スクーターのアクセルを回す。濡れたアスファルトが、ヘッドライトを反射して虹色に滲んでいた。