アバターは静かに花火を上げる

──平成0x29A年11月15日 03:50

午前三時五十分。監視室の空気は、サーバーの排熱と澱んだコーヒーの匂いで満ちている。

眼前のメインスクリーンには、第12治安ブロックが管理するメタバース広場の光景がいくつもタイル状に並んでいた。アバターたちが深夜にもかかわらず、噴水の前で意味もなく跳ねたり、エモートで火花を散らしたりしている。俺の仕事は、このデジタルの喧騒の中に、現実への害意が芽吹く瞬間を摘み取ることだ。

『対象グループ『赤提灯』の会話ログを要約。危険度レベル3を検出』

網膜に直接テキストを投影してきたのは、標準代理エージェントだ。妻の沙織は、三日前から法定倫理検査に入っている。彼女がいれば、こんな無機質な警告はよこさない。『譲二、ちょっと変な話してる子たちがいるよ』とでも言うだろう。その声が、今はひどく遠い。

『報告内容:『承認』と『ハンコ』の入手を計画。入手次第、第七地区行きの自動運転シャトルを掌握する意図を示唆』

背筋に冷たいものが走った。第七地区はブロック間の物流ハブだ。シャトル掌握など、党ドクトリンに対する明確な反逆行為と見なされる。俺は椅子を軋ませ、コンソールの物理キーを叩いた。

「メンバーの物理プロファイルを表示」

『了解』

代理エージェントが無感情に答える。沙織なら「わかった。すぐ出すね」と返してくれたはずだ。俺は思考を打ち切り、デスク脇の重いキャビネットを引き開けた。中には、古めかしい分厚いバインダーが詰まっている。表紙に『ブロック内居住者台帳』と印字された、いわゆる電話帳だ。電子データが汚染された際の最終防衛ラインとして、未だに紙での記録が義務付けられている。

ページをめくると、対象者たちの名前と住所が並んでいた。いずれも十代後半から二十代前半。ごく普通の市民だ。テロリストの顔には見えない。

『更新情報:党ドクトリンの暗号鍵を『複製』する計画について言及』

警告レベルが4に引き上げられる。いよいよまずい。俺は緊急対応プロトコルを発動させようと、右手を認証パッドに伸ばした。だが、その寸前で指が止まる。

なにかがおかしい。あまりに教科書通りの反乱計画だ。沙織なら、彼らの言葉の裏にある感情の揺らぎや、コミュニティ内の力学まで読み取ってくれる。この代理エージェントは、単語を治安維持データベースに照合しているだけだ。言葉が、あまりに平面的すぎる。

「…代理エージェント。翻訳精度を最低に設定。会話ログの原文を表示しろ」

『…推奨されません。情報ノイズが増大します』

「いいからやれ」

一瞬の間を置いて、スクリーンにスラングと顔文字、略語だらけのテキストが滝のように流れ始めた。俺は目を凝らして、その混沌とした文字列を追う。

『「ギルマス(ギルドマスター)の承認(ショウニン)さえ取れれば、例のレアアイテム(通称:ハンコ)もらえるって!」』
『「マジか!そしたら次のレイド、俺たちのクランでシャトル(ゲーム内の大型飛空艇)独占できるじゃんw」』
『「そのためには、まず『党ドクトリン』って名前のボスの攻略法(鍵)をみんなで複製(コピー)しないとな」』

俺は、こめかみを押さえた。全身から力が抜けていく。なんだ、これは。
オンラインゲームの攻略話じゃないか。

代理エージェントは、彼らの隠語を、その表層的な意味だけで拾い上げ、最悪のシナリオに仕立て上げていたのだ。

報告書のステータスを「異常なし」に変更し、俺は引き出しから朱肉と、象牙でできた自分のハンコを取り出す。正式な記録として残すには、この物理的な承認印が今も必要だった。

トン、と乾いた音を立てて紙に朱色が刻まれる。

その瞬間、ふと気づいた。俺たちを監視しているのは、この不完全な翻訳機だけではない。その言葉を疑わずに、最悪の筋書きを信じ込もうとする俺自身の心も、同じくらい歪んだ監視者だったのかもしれない。

スクリーンの中では、クエストに成功したらしいアバターたちが、夜空にデジタルの花火を打ち上げていた。妻のいない監視室に、そのささやかな祝祭の音だけが、やけにクリアに響いていた。