液晶の痣、呼び出し番号は「サヨナラ」
──平成0x29A年 日時不明
窓のない監視室には、空調の低い唸りと、何十枚もの液晶パネルが放つ熱気が充満している。壁のデジタル時計は、同期エラーで「00:00」を点滅させたまま、もうどれくらい経過したのかも分からない。外が昼なのか夜なのかも、今の僕には関係のないことだった。
「兄貴、また位置情報ビーコンがサボってるよ。ほら、三番街の交差点」
スピーカーから、妹の結衣の声が響く。十九歳のままアップデートを止めた彼女のエージェント・人格は、相変わらず鋭い。僕が手元のガラケー型端末――第12防犯ユニット専用の操作機――を開くと、粗いドットの画面にエラーログが流れた。
画面の中では、平成風のダウンジャケットを着た男が、街角の共有型バッテリー・スタンドの前で立ち往生していた。彼は自分の端末をスタンドにかざしているが、認証が通らないらしい。スタンドのLEDが赤く点滅し、周囲のビーコンが彼を「未登録の浮遊オブジェクト」として検知し始めた。
「データの再同期トラブルね。ドクトリンのアルゴリズムが、彼のIDを1990年代の遺失物データと取り違えてるみたい」
結衣が笑いを含んだ声で言う。監視カメラの映像を拡大すると、男の顔が認識枠に捉えられた。しかし、システムが弾き出した名前は、かつてのアイドルグループのメンバーだった。明らかにバグだ。党のドクトリンが古くなりすぎて、現実の市民データとエミュレートされた文化情報の境界が溶け出している。
不意に、ガラケーが激しく振動した。液晶に踊るのは、菊の紋章をデジタル処理したような「第0x31B内閣ユニット」のロゴ。そして、無機質な通知。
【閣議承認依頼:第402ヘゲモニー期・広域同期パッチの適用について】
【現在の内閣総理大臣:真壁 慎(任期残り:04:59)】
「うわ、当たっちゃった。おめでとう、五分間だけの最高権力者さん」
結衣の茶化すような言葉を聞き流しながら、僕は震える指で物理ボタンを叩く。この五分間で、街の同期ズレを直さなければならない。さもなければ、あのバッテリーを借りようとしている男は、システム上で「存在しない人間」として警備ドローンに排除されるだろう。
エージェントの補佐を受け、僕は差分リクエストを精査する。承認には、党中央の暗号署名が必要だ。だが、表示された署名キーの入力画面を見て、僕は絶句した。それは、十桁の数字しか受け付けない、旧世代のポケベル入力インターフェースだった。
「兄貴、これ『ポケベル暗号』で署名しろって言ってるよ。党のアルゴリズム、いよいよ末期だね」
結衣が提示したのは、かつて流行した数字の語呂合わせリストだった。ドクトリンは、社会の安定に最適だとして、この街のあらゆる通信プロトコルを平成初期の様式に先祖返りさせていたのだ。僕は必死に数字を打ち込む。
0840(オハヨウ)、3341(サミシイ)、そして同期完了を意味するはずの、0931(オクサン)。
署名が受理され、街のビーコンが一斉に青く変わった。モニターの中の男は、ようやくバッテリーを引き抜き、安堵の表情で雑踏に消えていった。僕の任期も、あと数秒で終わる。
「あ、兄貴。ちょっと待って。最後の署名、読み間違えてたかも」
結衣の声が不安げに揺れた瞬間、任期終了のブザーが鳴った。同時に、監視室のモニター群に異常な光景が広がる。街中の電光掲示板や、市民が持つポケベル型の通知端末に、一斉に同じ数字が表示されていた。
4649(ヨロシク)
データの同期は確かに完了した。しかし、街の住民全員のIDが「ヨロシク」という単一の文字列で上書きされてしまったのだ。今やこのブロックでは、誰が誰であるかを証明する術はない。皆が平等に「ヨロシク」さんになった。
「まあ、治安維持的には『全員身内』ってことで、これ以上なく平和なんじゃない?」
結衣の無責任な言葉を聞きながら、僕は深く椅子に沈み込んだ。ガラケーの画面には、次の総理大臣に選ばれた誰かへの引き継ぎ完了メッセージが、虚しく点滅していた。窓の外では、存在しないはずの夕焼けのようなオレンジ色の光が、液晶の痣のように街を染めていた。