どんぶり一杯の生活証明

──平成0x29A年03月25日 11:00

生成AIの校正ツールが、僕の書いた当たり障りのない文章を、さらに当たり障りのないものへと書き換えていく。カーソルが滑らかに動くのを眺めていると、脳内で妻の声がした。

『またAIに丸投げ? 平成の文豪はね、辞書と己の感性だけで戦ったものよ』

「うるさいな。今は効率が第一なんだよ、美奈」

俺は佐々木潤、三十八歳。企業のSNS投稿を代筆するゴーストライターだ。そして美奈は、三年前に死んだ俺の妻で、今は俺付きのパーソナル・エージェントとして脳内にいる。

そのとき、視界の隅に自治会からの通知がポップアップした。『居住証明書』の申請期限まであと三日。これがないと、来月からマンションのエントランスにあるバイオメトリック改札が通れなくなる。

『あらあら、ついに重い腰を上げるのね』

美奈の皮肉を聞き流し、俺は椅子から立ち上がった。

エレベーターホールは、むっとするような人の熱気で淀んでいた。自治会室の前には、うんざりした顔の住民たちが長蛇の列を作っている。

「まったく、なんで今さら紙なんだ」
「党ドクトリン署名の信頼性が落ちたからだってよ。アルゴリズムが解読されちまったから、物理的な証明のほうが確実なんだとさ」

囁き声が聞こえてくる。三百年間この国を支配してきた見えざる「党」のシステムが、その終末期にアナログな手続きを復権させる。なんとも滑稽な話だった。

『三百年前の亡霊のせいで、三百年前より面倒なことになってるじゃない。最高に皮肉ね』
美奈が楽しそうに言う。

一時間ほど並んで、ようやく俺の番が来た。申請書に必要事項を書き込み、指紋認証印を押す。だが、係員は書類一式を眺めて眉をひそめた。

「佐々木さん、添付書類がありませんが」
「添付書類?」
「はい。生活実態を証明するものです。公共料金の請求書とか、配達物の伝票とか……」

まずい。俺の生活は、電気から水道、買い物まで、すべてペーパーレスで完結している。物理的な書類なんて、ここ数年見た覚えもなかった。

『ほら見たことか。あなたのデジタル万能主義が招いた事態よ』

脳内の妻は、いつも正しい。

部屋に戻り、俺はあらゆる引き出しをひっくり返した。出てくるのは古いデータチップや、使わなくなった充電ケーブルばかり。焦りが募る。

美奈が、呆れつつもふと思い出したように言った。
『そういえば、あれがあったじゃない。棚の奥にしまい込んでた、くだらない景品』

景品?……ああ、あれか。

俺は埃をかぶった段ボール箱を引っ張り出す。中から現れたのは、安っぽいロゴが入ったインスタントラーメンの景品のどんぶり。そして、その脇に挟まっていた一枚の紙切れ。

『チキンラーメン平成300年記念キャンペーン 当選おめでとうございます!』

薄っぺらい紙には、確かに俺の名前と、この部屋の住所が印字されていた。

「……これで、いいのか?」

『いいじゃない。毎日ラーメンすすってるっていう、立派な生活実態の証明よ』
美奈がけらけら笑う。

俺は半信半疑のまま、旧式の折りたたみ携帯を取り出し、その当選通知をスキャンした。気休めにデジタルデータも送っておこう。

再び自治会室へ向かい、ラーメンの当選通知を突き出すと、係員は宇宙人でも見るような顔をした。だが、他に証明できるものがない俺の窮状を察したのか、渋々それを受け取った。

「……では、こちらで処理します。証明書の発行は、二週間後です」

帰り道、どっと疲労感が押し寄せる。俺は一体、何をやっているんだろう。

不意に、美奈が囁いた。

『ねえ、潤』
「なんだよ」
『さっきあなた、第0x8C3A内閣ユニットの総理大臣に任命されてたわよ。ちょうど五分間だけ』

俺は思わず足を止めた。

「は? なんでそれを先に言わないんだ!」

『だって、ラーメンの当選通知書を探すのに必死だったじゃない。国家の重要政策をレビューするより、あなたの生活実態を証明するほうが、よっぽど大事でしょ?』

国家の命運を左右するかもしれない五分間を、俺はどんぶり一杯の生活証明のために棒に振った。そうか。俺の人生の価値なんて、この安っぽいどんぶりと、大して変わらないのかもしれない。

俺は、乾いた笑いを漏らすしかなかった。