シールの剥がれた午前、噴水の見える場所で

──平成0x29A年04月22日 10:20

 プリクラ機の排熱口から温風が吹いていて、四月にしてはぬるい朝だった。

 第14公共ブロック中央公園の噴水広場。ベンチに座った私の左腕に、ナノ医療パッチが薄く光っている。先週の定期健診で貼られたやつ。皮膚の下で何かが数値を測り続けているらしいが、剥がれかけの端が袖口に引っかかって、ただ鬱陶しい。

「梨花、パッチ押さえな。めくれとるよ」

 エージェントの声が右耳に届く。祖母の声だ。七年前に肺炎で逝った祖母・中條カヨ。享年七十八。生前そのままの、少し掠れた声で私の生活に口を出す。

「わかってる」

 パッチの角を親指で押さえながら、私は膝の上のガラケーを開いた。iモードのトップ画面に、無数のリンクが並んでいる。〈公園施設予約〉〈天気〉〈着メロランキング〉。その下に、点滅する通知バナー。

〈第0xA3F1C内閣ユニット──中條梨花を内閣総理大臣に任命。任期:10:20─10:25〉

 また来た。三ヶ月ぶり、二度目。

 噴水の合成音声アナウンスが切り替わる。「十時二十分をお知らせします。本日の紫外線指数は──」。その裏で、政策変更リクエストの束がガラケーの画面に流れ込んできた。

「カヨさん、閣議だって」

「聞こえとるよ。開きな」

 一件目。第14公共ブロック内の遊具安全基準改定。差分は微小で、ブランコの鎖の太さに関する数値がゼロコンマ二ミリ変わるだけ。祖母が即座に分析結果を返す。党ドクトリンとの整合性──適合。承認ボタンを押す。署名アルゴリズムが走り、ガラケーが一瞬熱くなる。

 二件目。噴水広場のプリクラ機設置許可の更新申請。現行制度との差分は、設置区画が〇・五メートル東にずれること。些細だ。だが祖母が引っかかった。

「梨花。署名が通らんかもしれん」

「なんで」

「ドクトリンの施設区画定義、旧版と新版で座標系が違う。申請側は新版で書いとるけど、署名検証は旧版を参照しとる。ゼロコンマ五メートルの差分が、検証側では別区画に跨ってまう」

 目の前のプリクラ機を見た。〈激盛れ♡平成プリ〉と筐体に書いてある。フレームにはルーズソックスの女の子とスマートフォンを持つ女の子が同居していて、時代がぐちゃぐちゃだ。排熱口の温風が、私のパッチの端をまたぺろりとめくった。

「座標変換すれば通るんじゃないの」

「通るよ。でもそれは申請側の仕事やない。あんたが閣議で差し戻すか、自分で署名を通す裏道を使うかや」

 裏道。つまり半ば公然と解読されているアルゴリズムの隙間に、手で数値を差し込むこと。誰もがやっている。誰もが知っている。けれど閣議決定の記録には「党ドクトリン署名:適合」とだけ残る。

 噴水がひとしきり高く上がり、合成音声が「園内での喫煙はご遠慮ください」と繰り返した。

 残り一分半。

「……差し戻す」

「理由は?」

「座標系の不整合。申請者に新旧どちらかへの統一を求める、って書く」

 祖母が少し黙った。それから、咳払いのような音。生前の癖がそのまま残っている。

「まあ、ええやろ。時間かかるけどな」

 非承認のボタンを押した。理由欄にガラケーの十字キーで一文字ずつ打ち込む。送信。署名が走る。今度は正規の経路で、何も歪めずに。

 十時二十五分。任期終了の通知がぽろん、と鳴った。

 ガラケーを閉じて、立ち上がる。パッチの端がまためくれた。爪で丁寧に押さえ直す。皮膚に密着すると、ほんの少し冷たい。

 プリクラ機の前を通り過ぎるとき、筐体のガラスに自分の顔が映った。三十歳の顔。その向こうに、フレームの中の女の子たちが笑っている。どの時代の笑顔なのか、もうわからない。

 背後で噴水の合成音声がまた何か言ったが、風に紛れて聞き取れなかった。

 ただ、左腕のパッチの冷たさだけがしばらく残った。