僕らの不完全なハローワールド

──平成0x29A年05月08日 19:10

最終の自律型バスが停留所を発つまで、あと四十分。

モニターの右上に表示された時計が、無機質に僕の帰宅リミットを告げていた。目の前では、第402ヘゲモニー期を三百年にわたって規定し続けてきた暗号の奔流が、滝のように流れ落ちては組み替わっていく。党ドクトリン署名アルゴリズム。僕らは、この美しくも完全な牢獄の設計図を、もう何年も見つめ続けている。

『聡、休憩くらい取れよ。お前が倒れたら、俺が悲しむ前に倫理検査に引っかかる』

網膜ディスプレイの隅で、半透明の兄さんが呆れたように腕を組んだ。三年前、この同じデスクで心臓を止めた人とは思えないほど、その声ははっきりしている。

「分かってるよ、兄さん。でも、もう少しで……」

『その“もう少し”で、俺はこっち側に来たんだぞ』

ぐうの音も出ない。僕はキーボードから手を離し、立ち上がった。冷え切った合成肉のサンドイッチじゃなく、何か温かいものが食べたい。白衣を羽織り、静まり返った研究所の廊下を抜ける。

外に出ると、湿った夜風が火照った顔を撫でた。駐輪場には、僕の古びた自転車が停まっている。車輪に挟まれた黄色い紙札には、インクが滲んだ手書きの整理番号。隣では、最新の電動キックボードが自動で充電ポートに吸い込まれていく。このちぐはぐな風景が、僕らの日常だ。

研究所から一番近いスーパーは、深夜までやっているのがありがたい。入り口をくぐると、けたたましい電子音が鳴った。省人化レジの列で、バーコードが読み取れないだの、ポイントカードがどうのと、結局一人の店員さんが走り回っている。完璧を目指したシステムが、完璧じゃない人間にてんてこ舞いさせられている光景は、どこか滑稽だった。

温かいカップ麺と缶コーヒーをカゴに入れ、そのレジの列に並ぶ。傍らの台には、色とりどりの折込チラシが山積みになっていた。「週末びっくり市!」「春の塾生募集」。どれもこれも、過剰なほどにインクを使い、情報を詰め込んでいる。統一感のないフォント、強引なレイアウト。僕はその一枚を、何となく手に取った。

研究所に戻り、給湯室で湯を注ぐ。デスクに戻ると、兄さんが心配そうに僕を見ていた。

『何か、つかめたか?』

「逆だよ。僕らがやってきたことは、たぶん間違いだ」

僕はモニターに、解析しきった党ドクトリンのコア・ロジックを呼び出した。無駄がなく、矛盾もなく、すべての例外を排除するよう設計された、数学的な芸術品だ。僕らはこれを模倣し、同じ権限を持つ「対抗署名」を作ろうとしてきた。

「僕らは、完璧な鍵の、完璧なコピーを作ろうとしてた。でも、その鍵で開くのは、同じ形の牢獄の扉だけだ」

『……』

「このドクトリンには、“余白”がないんだ。スーパーのチラシみたいな、無駄で、不格好で、でも誰かが何かを伝えようとする必死さが」

僕は手に持っていた折込チラシを広げた。そこには、赤いマジックで「本日、卵の入荷はありません!ごめんね!」と手書きの文字が追記されていた。

システムのエラーじゃない。人の言葉だ。

「駐輪場の紙札も、エラーだらけの省人化レジもそうだ。不完全だから、人が介在する隙間が生まれる。僕らが作るべきだったのは、完璧な模倣品じゃない。もっと不完全で、誰もが書き込めて、間違いすら許容するような、そんな……白紙の署名だ」

それは、暗号じゃない。ただの約束のプラットフォームだ。

『……面白いじゃないか。俺のいた頃には、誰も思いつかなかった』

兄さんの声が、少しだけ弾んでいるように聞こえた。

僕はカップ麺が伸びるのも忘れ、新しいファイルを開いた。キーボードを叩く。書いているのは、暗号理論じゃない。もっとずっと単純な、人と人とを繋ぐためのルールセットだ。「Hello, World.」――画面に、新しい世界の産声が灯る。

ふと気づくと、最終バスの時間はとうに過ぎていた。でも、不思議と焦りはなかった。

窓の外を、空っぽの自律型バスが音もなく走り去っていく。僕らはあれに乗り遅れた。

だけど、ここからなら、どこへだって歩いていける。そんな気がした。