苗床の不整合、午前零時の追肥
──平成0x29A年10月27日 00:40
ビニールハウスの中は、十月の深夜でも三十二度ある。
俺は額の汗をタオルで拭いながら、培養液のpHメーターを睨んでいた。数値は正常。問題は土じゃない。
腰のホルダーに挟んだガラケーが震えた。二つ折りのを開くと、サブディスプレイに「第0x7A1F2内閣ユニット:政策変更リクエスト受信(1/1)」と出ている。メインの画面を開けば、差分断片の詳細が縦スクロールで流れてくる。
農業用水の配分比率を0.3パーセント変更する件。
「おい、源さん」
右耳のイヤピースから、低い咳払いが聞こえた。
「……見とるよ。署名がおかしい」
亡くなった祖父——梶原源蔵のエージェントは、生前と同じ調子で言った。享年七十一。脳梗塞で逝った元農協職員。エージェントになってからも、数字の端数にだけは異様にうるさい。
「どこが」
「ドクトリン署名のハッシュ末尾四桁。上位リクエストの連番と噛み合っとらん。0xF3E8であるべきところが0xF3E9になっとる」
一桁のずれ。
俺はガラケーの画面を親指でスクロールした。確かに、署名検証のインジケーターは緑色——つまり「有効」と表示されている。だが源さんの言う通り、末尾を目視で追うと連番が一つ飛んでいる。
「通すか?」
「通せるよ。検証は通っとる。だがな、修ちゃん」
源さんは俺を子供の頃の呼び名で呼ぶ。
「こういうのが三つ四つ重なると、配水系統の演算がコケる。前にも言うたろう」
言われた。先月も。先々月も。そして毎回、俺は通している。報告を上げても、並行する数十万のユニットのどこが受け取るのかわからない。受け取ったところで五分後には別の総理大臣だ。
俺は苗床の端に腰を下ろし、作業着のポケットから通帳を出した。JAの文字が擦れた、磁気ストライプ式の薄い冊子。記帳欄の最新行には、今月のサブスク決済——培養液の定期配送と、ナノ医療パッチの月額利用料——が並んでいる。パッチは左の肩甲骨のあたりに貼ってある。腰痛と血圧を同時に見てくれる便利なやつだが、月額が地味に高い。通帳の残高は、まあ、減りはしない。働かなくても暮らせる仕組みだと誰かが言っていた気がするが、俺は毎晩ここにいる。
「源さん、これ否認したらどうなる」
「配分比率は現行のまま据え置き。水は足りる。ただし、否認理由に署名不整合と書けば、ドクトリンの検証ロジック自体に監査が入る可能性がある」
「可能性」
「0.004パーセント未満だがな」
ハウスの天井で、人工授粉用のドローンが一匹、電池切れで止まっていた。明日の朝には誰かが取り替える。俺じゃないかもしれないし、俺かもしれない。
ガラケーの画面に親指を置いた。「承認」のボタンは右、「否認」は左。
「……否認で」
押した。
画面が切り替わり、否認理由の入力欄が出る。俺は「署名ハッシュ末尾不整合(0xF3E8→0xF3E9)」と打った。予測変換がやたら優秀で、途中から勝手に文面を補完してくれる。
送信。
五秒後、ガラケーが再び震えた。
「第0x7A1F2内閣ユニット:任期終了。ご奉仕ありがとうございました」
五分経っていた。俺はもう総理大臣ではない。
「源さん」
「ん」
「あの否認、誰か読むかな」
源さんは少し間を置いてから、生前によく聞いた、鼻で笑うような息を漏らした。
「読まんよ。だが修ちゃん、通帳に『否認1件』の処理手数料が入る。十七円」
俺は通帳を開いた。磁気ヘッドが動く微かな音がして、最終行が更新されていた。
十七円。
ナノ医療パッチの月額には、あと二百四十三回ほど否認すれば届く計算になる。
ハウスの外で風が鳴った。苗床のレタスは何も知らずに、LEDの光を浴びて育っている。