乾電池の献灯

──平成0x29A年02月02日 13:10

平成0x29A年02月02日、13:10。

寺の庫裏の勝手口で、私は段ボールを抱え直した。中身は乾電池。単三、単四、角形。山みたいに詰められていて、揺らすとざらざら鳴る。

「持ち方が雑。角が当たって痛いでしょ」
耳の奥で、母の声がした。享年四十六。脳卒中で逝って、今は私の補佐役として棲みついている。

「分かってるよ」
私は段ボールの角を腹に当て、庫裏の省人化レジの前に置いた。線香や水引、御朱印帳の隣に、乾電池が積まれている景色は、いつ見ても笑っていいのか迷う。

レジは無人のはずなのに、今日は画面の隅で小さな砂時計が回っていた。
《内閣ユニット割当:第0x771A3 内閣総理大臣(5分)》

「また当たったの?」と母。
「また、だね」

私は寺務所の端末を起動した。触覚フィードバック端末。指を置くと、微かな段差と震えでフォームの区切りが分かる。古いガラケーのテンキーみたいなクリック感に、ARの広告が勝手に重なる。『献灯サブスク、初月無料』が宙に浮く。

堂内では、午後の法要が始まっていた。木魚の音、焼香の匂い。参列者のコートの擦れる音が、畳の上をゆっくり流れる。

私は段ボールから乾電池をいくつか抜き、献灯用の灯籠の裏に滑り込ませた。ここ数年、ろうそくは安全基準の更新で使えない。代わりにLEDの灯が、乾電池で点く。供養も、規格に合わせていく。

母が小さく咳払いをした。
「ねえ。今日の差分断片、来てる」

端末が、指先の振動で通知を伝えた。
《政策変更リクエスト:宗教施設における献灯電源の規格統一(差分)》
《署名必要:党ドクトリンアルゴリズム署名》

私は息を吐いて、受付の引き出しを開けた。紙の地図。第六区から第九区までの区境が、鉛筆で何度も書き直されている。寺の檀家が散らばる範囲を、私はこれで覚えている。ネットの地図は便利だけど、区境がたまに“更新”される。

「この地図、まだ使ってるの」
「更新が信用できないから」

端末に指を置くと、署名欄がざらつく感触で現れた。党ドクトリン署名。いつもは一発で通る。けれど今日は、指先に返ってくる振動が、妙に細かい。

《署名不整合:微小偏差 0.003%》
《原因候補:ドクトリン参照ブロックの枝分かれ》

「細かすぎる」私は呟いた。
母が言う。「最近、みんな分かっちゃってるから。署名の癖」

堂内から、住職の読経が一段高く響いた。参列者が一斉に頭を下げる気配。私は受付の椅子に腰を落とし、紙の地図の上に端末を置いた。地図の折り目が端末の背面に当たり、ほんの少しだけ傾く。

「0.003%で弾くなら、献灯が止まる」
「止まらないようにするのが、今のあなたの5分」

母は淡々としている。叱るでも励ますでもなく、昔の家計簿の確認みたいな口調。

端末の触覚が、署名の“ここ”を押せと促す。私は指を滑らせた。震えが一瞬、強くなる。暗号の目が合うような感覚。

《再試行》
《不整合:微小偏差 0.003%》

「同じだ」

庫裏の奥から、乾電池の段ボールを運ぶ台車の軋む音がした。省人化レジが、勝手に在庫を読み上げる。
《単三:残 1,248/単四:残 992》

多すぎる。灯籠は増えていくのに、規格は揃わない。私の指先の0.003%みたいに。

母が言った。「地図、見て。檀家さんの区域、また薄くなってる」

私は紙の地図を広げ、鉛筆の線を目でなぞった。区境の上に、薄い印刷の線がずれて重なっている。誰かが、どこかの内閣ユニットで引き直したのだろう。紙なのに、追いつかれている。

堂内の木魚が、一定のリズムで続く。私は端末の署名欄に戻った。5分の砂時計が、残り少ない。

「通らないなら、どうする?」
母の問いは、ただの確認だった。

私は献灯の灯籠を見た。乾電池で点る小さな光。規格統一が遅れたせいで、灯籠ごとに蓋の形も電池の向きも違う。けれど、光は同じ色で揺れている。

私は署名を諦め、差分断片の備考欄に短く打ち込んだ。触覚の段差が、文字の終わりを教える。
《現場運用優先。規格統一は見送り。既存在庫(乾電池)を使用》

《閣議決定:非承認》
《理由:署名不整合》

砂時計が止まり、通知は静かに消えた。

堂内で、焼香が進む。誰かの鼻をすする音。畳に落ちる膝の気配。私は段ボールから乾電池を一つ取り出し、献灯の予備箱にそっと置いた。

母が言う。「それでいいの?」

私は省人化レジの前で、線香を一束だけスキャンした。ピッ、と平成のコンビニみたいな音がして、支払いは勝手に終わる。

「いいよ。署名が揃うまで、光は乾電池で点く」

私は紙の地図を折り直し、端末の上に重ねた。触覚の震えはもうない。

庫裏の窓から、冬の光が差し込んで、乾電池の山が鈍く銀色に光っていた。まるで、これ自体が供物みたいに。私はそれを見て、ただ次の段ボールを開けた。