湿った封筒と、母の忘れもの
──平成0x29A年 日時不明
集合住宅の六階、廊下の端。私は膝をついて、転がったガラケーを拾い上げた。
画面には母からの着信履歴が三件。どれも二分以内に切れている。エージェントの母は、用件を言い終える前に通話を終える癖がある。生前もそうだった。
「また勝手に切ったな」
呟きながら折り返そうとすると、足元でロボ清掃員が警告音を鳴らした。小型の円盤が、私の靴を障害物認識している。私は二歩下がった。清掃員はゆっくりと方向を変え、廊下の奥へ消えていく。
私の名は水谷葉月、三十二歳。この集合住宅の管理組合・補助員をしている。住人が少ないこの建物で、主な仕事はユビキタスセンサー網の保守点検と、共用部の不具合対応だ。
今日もセンサー網の巡回点検を終え、自室に戻ろうとしていたところだった。だがポストの前で足が止まった。見慣れない封筒が、私の部屋番号の投函口から少しだけはみ出している。
封筒を引き抜くと、妙に湿っていた。匂いを嗅ぐ。かすかに薬品臭がする。写真の現像袋だ。表面には「DPE平成カメラ」のロゴと、手書きで「水谷様」とある。
私は写真を頼んだ覚えがない。
ガラケーが震えた。母からだ。
「もしもし」
『葉月、あのね』
母の声は、いつもより少しだけ遠い。
『さっき気づいたんだけど、私、昔あなたに写真を渡し忘れてたかもしれない』
「写真?」
『うん。あなたが小学生のとき、遠足で撮ったやつ。現像したまま引き出しに入れっぱなしで……ごめんね』
私は封筒を見つめた。母は七年前に亡くなった。享年五十五、病死。エージェントになってからも、細かいことをよく気にする性格は変わらない。
「でも、これ今日届いたんだけど」
『そう……おかしいわね』
母の声が途切れた。通話が落ちたわけではない。考え込んでいる沈黙だ。
私は封筒を開けた。中から数枚の写真が出てくる。どれも色褪せている。写っているのは、見覚えのない風景と、見覚えのない子どもたち。私ではない。
「母さん、これ私じゃないよ」
『……そう』
母の声が、また少し遠くなった気がした。
『ごめんね、葉月。私、少し混乱してるみたい』
「大丈夫?」
『うん。たぶん、倫理検査が近いせいかもしれない。来週なの』
私は写真を封筒に戻した。ユビキタスセンサー網が、私の生体反応の微細な変化を記録しているはずだ。心拍が少し上がっている。
「じゃあ、ゆっくり休んで」
『ありがとう。でもね、葉月』
「うん?」
『もし私が忘れてることがあったら、教えてね』
その言葉に、私は何も答えられなかった。
通話を切ると、廊下の奥からロボ清掃員が戻ってきた。円盤は私の足元で一度停止し、それからゆっくりと私を迂回して進んでいく。センサーが私を正しく認識している。
私は封筒を持ったまま、自室のドアを開けた。部屋の中は薄暗い。窓の外には、隣の棟が見える。どこかの部屋で、誰かが洗濯物を取り込んでいた。
封筒を机の上に置いた。写真の一枚が、少しだけはみ出している。知らない子どもの笑顔が、私を見つめていた。
母が忘れているのは、写真のことだけだろうか。
私は答えを持たないまま、窓の外を眺めた。夕暮れが近づいている。日時は不明だが、空の色だけは確かだった。