回覧板と、レベル7の味
──平成0x29A年 日時不明
「まーた同じ景色か。こんなもん、畑じゃねえ」
耳の奥で、じいちゃんがいつものようにぼやいた。俺は返事もせず、ガラスの向こうに広がる光景を眺める。どこまでも続く、発光パネルに照らされたレタスの棚。高層農業プラントの三百階、休憩ラウンジからの眺めは、人工的で、完璧で、そして退屈だ。
俺は手に持ったクリップボードを軽く叩き、ソファで茶飲み話に興じるパートのおばちゃんたちに声をかけた。
「組合から回覧です。次、お願いします」
受け取った田中さんが、老眼鏡ごしに紙の束を眺める。「はいはい、ご苦労さん。次期作付け計画ねぇ」。その声は大きいが、本当に読みたいのは、その紙の隅に印刷された、QRコードよりもっと原始的なドットの羅列だろう。
俺の仕事は、この農産物流通協同組合で、こまごまとした事務処理をこなすことだ。その中には、こうした「裏の回覧板」を回す役目も含まれている。
「これでまた、あの甘いカボチャ、作れるようになるかねぇ」
隣の鈴木さんが、声を潜めて田中さんに話しかける。俺は聞こえないふりをして、ラウンジの隅に向かった。
そこでは、若い作業員のひとりが、床に置かれたブラウン管テレビに繋がれた灰色の筐体にかじりついていた。スーパーファミコン、だったか。ピコピコという軽快な電子音だけが、この静かな空間に響いている。
「よう、回覧」
「あ、吾郎さん。ども」
彼はコントローラーを置くと、俺から紙を受け取り、ドットの羅列を一瞥してニヤリと笑った。
ここ百年ほど、俺たちの食生活は「党」中央ドクトリンなるものに管理されてきた。効率と安定供給がすべて。党が何か、誰も知らない。ただ、あらゆる決定に暗号署名を要求してくるアルゴリズムだけが存在する。味のいい野菜なんて、非効率の極みとして真っ先に栽培計画から弾かれる。
だが、その鉄壁のアルゴリズムも末期だ。半ば公然と解読され、抜け道を探すのが俺たち下々のささやかな抵抗だった。
「インチキはいかんぞ、吾郎。土は嘘をつかんが、お前さんは嘘をついとる」
じいちゃんのエージェントが、真面目な声で諌めてくる。
(じいちゃんの好きだった、あの酸っぱいトマトも復活させられるかもよ)
心の中で返すと、じいちゃんは少し黙った。
俺は自分の携帯端末を開き、組合の共有カーボンクレジット台帳にアクセスする。ドクトリンの穴を突いて栽培計画を通すと、排出権の計算に微妙な誤差が出る。その帳尻を合わせるのも、俺の仕事だ。画面には、並列処理される数十万の内閣ユニットの決定ログが、滝のように流れていく。
`第0x9C41A内閣ユニット: 承認 - 伝統品種カボチャ(コード:AK-01)試験栽培`
`第0x11B3D内閣ユニット: 承認 - 高糖度トマト(コード:HT-03)栽培許可`
`第0xF0E55内閣ユニット: 承認 - ……`
壊れた蛇口みたいに、承認のログが溢れ出している。三百年間、効率の名の下に切り捨てられてきたものが、今、一斉に芽吹こうとしているかのようだ。
「……本当に、あのトマトができるのか」
じいちゃんの声は、少しだけ震えているように聞こえた。
作業を終え、俺は再び窓の外を見た。整然と並んだレタスの棚は、少しも変わらない。それでも、ここから何かが変わるのかもしれない。そんな淡い期待が胸をよぎった、その時だった。
ラウンジのスピーカーから、抑揚のない自動音声が流れた。
「組合員の皆様へ。本日の出荷分より、栄養素調整プログラムが更新されました。新党ドクトリンVer402.8に基づき、全生産物の食味は『標準平成テイストレベル7』に統一されます。ご了承ください」
一瞬の沈黙の後、おばちゃんたちが顔を見合わせ、誰かが深いため息をついた。スーファミの電子音が、やけに間抜けに響く。
結局、これだ。俺たちはどんな品種を育てようと、最後に口に入る味は党が決める。
それでも、たぶん、俺たちはまた回覧板を回すのだろう。土のない空中で、決して届かない畑の味を夢見ながら。俺は、レベル7の味を想像して、乾いた笑いを漏らした。