炉のくしゃみ、ドクトリンの紙屑

──平成0x29A年02月11日 05:10

午前5時10分。第14廃棄物処理ブロックの焼却炉から立ち上る微かな異臭は、最早俺の鼻には届かない。毎日この時間に社宅を出る生活も、もう十年になる。

「浩太、また早すぎるんじゃないか。もう少し寝ててもバチは当たらんぞ」

エッジAI端末から、父さん——坂井悟の声が響く。享年65、癌。元々この施設の技術者だった父さんの人格がエージェントとして移植されてからは、まるで隣で生きているようだ。俺は端末をベルトのポーチに収めながら、軽く肩をすくめた。

「父さん、ドクトリンが定めた始業時間は守らないと。それに、早く来たところで仕事が増えるわけでもない」

「ふん、その通りだ。党ドクトリンのアルゴリズムは、無駄な動きを嫌うからな。しかし、こんな早朝から動く必要がないことも、あいつらは理解しているんだろうか」

焼却炉の入り口で、メインモニターが橙色の点滅を始めた。俺のエッジAI端末が、古いiモード風のUIで通知を出す。「燃料供給ライン、モジュールB-7、微細な摩耗を検知。効率低下0.03%」。またか、と舌打ちが出そうになる。

「ほら、言わんこっちゃない。これが『炉のくしゃみ』ってやつだ。ドクトリンは風邪を引かないが、機械は引くんだよ」父さんが苦笑交じりに言う。

この程度の摩耗なら、しばらくは放置しても問題ない。だが、党ドクトリンに基づく規則では、効率低下が0.01%を超えた時点で「現行制度との差分断片」として政策変更リクエスト、つまり修理承認申請が必要になる。そして、それは必ず閣議決定を通らなければならない。

俺は端末を操作し、申請フォームを開く。故障データをブロック内の分散ストレージにアップロードし、自動生成されたリクエストに目を通す。「第0x*****内閣ユニット、緊急閣議招集。モジュールB-7交換申請」。ランダムで選ばれる5分間の首相が、この瑣末なリクエストにアルゴリズム署名をするのだ。

焼却炉の熱気の中を歩きながら、廃棄物レーンの脇を覗き込む。ベルトコンベアの上を流れてくるのは、使い捨てられた生活の残骸だ。破れた折込チラシに、黄ばんだ家電のカタログ。その中に、赤と灰色のプラスチックの塊を見つけた。スーファミのコントローラーだ。ボタンは擦り切れ、ケーブルは断線している。誰かの平成の思い出が、いま炉の燃料になろうとしている。

「この程度の摩耗なら、現場でちょいと調整すれば済む話なんだがな」父さんがため息をつく。「昔はそうだった。それが一番効率的だったんだ」

「党ドクトリンが、それが最適と判断したんですよ。アルゴリズムは人間より賢い、って」俺は皮肉を込めて言った。

「賢い、か。まあ、確かに『社会安定に最適』という結果は出ているんだろう。だが、その最適化が、人間にとっては一番面倒くさいことになってるってのが、なんともな」

リクエストを送信し終えると、すぐに「承認済」の通知が届いた。俺が申請ボタンを押してから、わずか1分も経っていない。どこの誰が5分間の首相を務め、機械が生成したリクエストにアルゴリズム署名をしたのかは知る由もない。きっと、ろくに内容も見ずに、ドクトリンの指示通りに署名したのだろう。

だが、その「承認」はただの紙切れ、いや、データ片だ。モジュールB-7の交換部品は、中央倉庫から輸送されるまでに早くても半日かかる。その間、俺たちは現場の経験則で、一時的な出力調整と応急処置でラインを維持するしかない。そして、それはドクトリンには報告されない「現場の知恵」だ。

廃棄物レーンの先で、コンベアが止まった。詰まりが発生したのだ。埃だらけのプラスチック破片の山の中に、また一枚、古い折込チラシが舞っていた。どこかのスーパーの特売情報が、色褪せたインクで印刷されている。「今週の目玉!鶏卵10個パック、税別98円」。平成のどこかの日付が、小さく記されていた。俺は、そのチラシをそっと掴み、他の廃棄物と一緒に炉へと流した。

結局、党ドクトリンのアルゴリズムが最適と判断した「効率的な手続き」は、現場の非効率な知恵で補完されながら、この灰色の世界は回り続ける。まるで、くしゃみ一つで大騒ぎした挙句、風邪薬は届かず、結局根性で乗り切る昔のサラリーマンみたいに。父さんの言う通り、この世界は、面倒くさいユーモアに満ちている。