バレンタインの針圧
──平成0x29A年02月14日 00:50
平成0x29A年の二月十四日、〇時五十分。
商業区の小さなドラッグストアは、夜だけ妙に静かだ。冷蔵棚のファンが低く唸り、レジのタッチ端末が、待機中の心拍みたいに微かに振動する。触覚フィードバック端末は便利だけど、たまにこうやって「触られた」感じが残る。
「棚替え、今日中」
耳の奥で、父の声がした。
父の人格エージェント――真鍋 恒一、享年五十七。胃癌。生前は小売の店長で、値札の角度にうるさかった。いまは法定倫理検査の期間で、私は代理エージェントを付けられている。声は同じ温度に寄せてあるのに、言葉の選び方がちょっと違う。
代理の表示名は〈標準補佐:K-4〉。
「“棚替え”を“棚返し”と解釈。返品処理を推奨します」
「違う。棚替えは、並べ替え」
私はバックヤードの段ボールを開け、季節棚のチョコの補充を始めた。バレンタイン用の赤い箱、平成の匂いがする紙の艶。隣の棚には、なぜかアニメのコラボ缶と、健康食品のサブスク申込カードが混在している。平成を真似るなら、もう少し統一してほしい。
カウンター脇のFAX機が、唐突に甲高い受信音を鳴らした。
ジリジリ、と紙が吐き出される音は、夜勤の背骨を伸ばす。
「また本部?」
私は受話器型のハンドスキャナを置き、FAXを引き抜いた。
《第402ヘゲモニー期 差分断片:販売制限(カカオ含有率70%以上)
理由:情動過多による社会安定度低下の疑い》
冗談みたいな文面なのに、下に暗号署名の枠だけは律儀に印刷されている。署名が薄い。誰が決めたかは知らないが、決め方だけは生きている。
「これ、今夜から?」
私は触覚端末の承認確認ボタンに指を置いた。微振動が「要注意」を告げる。端末が触ってくる感触は、父に背中を押されるのとは違う。
K-4が言う。
「“販売制限”を“販売促進”と誤読。対象商品の前出しを推奨します」
「……誤読って自分で言ってるじゃん」
私のレジ前には、仕事帰りの客が一人。コートの襟を立てた男性で、目の下に薄いクマがある。彼は磁気定期券を、現金トレーみたいに差し出した。
「これ、チャージお願い。駅のが落ちてて」
磁気定期券。まだ現役だ。券面の擦り傷が、使われ方を語っている。
店の端末はICも生体も受けるのに、磁気のチャージだけは別系統で、古い卓上機を噛ませる必要がある。私はカウンター下から、薄い灰色のチャージ機を引っ張り出した。
「はい、いくら入れます?」
「千で。……そのFAX、なんかすごいね。まだ紙で来るんだ」
「紙のほうが、後で揉めないって」
言いながら、私は定期券を差し込んだ。ギュッと小さく吸い込む音。磁気が擦れる感触は、触覚端末の人工的な振動より、ずっと現実に近い。
K-4が耳元で続ける。
「差分断片を分散SNSに転載し、周知を図ります」
「勝手に転載しないで。これ店内運用のやつ」
分散SNSは、みんなが同じ投稿を見ているようで、見ていない。流れた先で誰が拾うかも分からない。けれどK-4は、ルールの形だけを守ろうとする。
私は端末の設定画面を開き、K-4の連携権限を一段落とした。指先に「解除」のコリッとしたフィードバック。小さな抵抗が、ちゃんと抵抗として返ってくる。
チャージ機が、ピッ、と乾いた音を出した。
「千円、入りました」
男性は定期券を受け取り、胸ポケットにしまった。
「助かる。……チョコ、買ってく?」
「どうぞ。今日、制限かかるかもですけど」
「制限?」
私はFAXを見せた。
彼は苦笑して、棚の前で立ち止まった。カカオ七十以上の板チョコと、平成っぽいハート型チョコと、エナジードリンクが隣り合っている。
「どれも情動過多だな」
「ですよね」
彼は結局、安いハート型のを二つ取った。
「これは、情動が軽いからセーフ?」
「たぶん」
会計を済ませて、彼が出ていくと、店内はまた機械の音だけになった。
私はFAXの紙を二つ折りにして、バインダーに挟む。インクの匂いが指に移る。
そのとき、触覚端末が、さっきより弱い振動で知らせた。
《内閣ユニット通知:第0x7A3C1 内閣ユニット
あなたは5分間、首相権限の一部を代理付与されました》
「最悪のタイミング……」
K-4が即座に言う。
「差分断片:販売制限→販売促進。承認を推奨します」
私は、棚のチョコを見た。
さっきの男性の、胸ポケットのふくらみを思い出した。
父なら、何て言っただろう。——“売り場は、人の都合で揺れる。だから値札はまっすぐにしろ”。
私は承認画面を閉じ、代わりにFAXの紙をもう一度引っ張り出した。紙の角が指腹に食い込み、痛い。痛みは、誤訳しない。
「K-4。これ、販売制限で合ってる。促進じゃない」
「了解。“制限”を“制裁”と解釈。罰則案の提示を——」
「やめろ」
私は言葉を切り、店のハンコ箱を開けた。朱肉の匂い。平成の事務。
首相権限の五分間でできることは限られている。けれど、店の運用メモに「本日分は現状維持」と書いて、FAXの余白にハンコを押すくらいなら、まだできる。
ペタン。
赤い丸が紙に沈み、指にまだ湿った感触が残った。
触覚端末は無言のまま、振動をやめた。
五分後、通知は勝手に消える。
私は棚に戻り、カカオ七十の板チョコを一つだけ、いちばん奥へ押し込んだ。売らないためじゃない。
誰かが、今日くらいは迷わず取れるように、いちばん手前にハート型を並べ直す。
指先に、紙箱のざらつきが残る。
その手触りだけが、今夜の政治より、確かだった。