窓口番号は、まだ呼ばれない
──平成0x29A年04月14日 19:50
平成0x29A年04月14日、19:50。
旧区役所の市民窓口フロアは、蛍光灯の白さだけが元気で、人間の声は少ない。床のタイルの目地に沿って、公共ARサインが薄く浮かぶ。「→ 住民認証」「→ 税・徴収」「→ エージェント倫理相談(本日混雑)」。
俺は最後の矢印に従い、番号札を取った。紙に印刷された二次元コードの横に、ARで小さく「整理番号 23 / 推定待ち 18分」と出る。平成っぽく紙があるのに、待ち時間はクラウドが決める。
耳には片耳だけ、深夜ラジオ。時刻は深夜じゃないのに、番組名だけは「ミッドナイト相談室」。DJが、懐かしいジングルのあとで言う。
「今夜のメール、エージェントさんが黙っちゃったって人、多いねえ」
胸ポケットのガラケーが震えた。iモード風の青いメニューの上に、サブスクの広告が半透明で被さる。
【通知】法定倫理検査:近親人格エージェント停止
対象:宇田川 恒一(享年61)
期間:本日 19:45〜
代理:割当済(翻訳精度 86%)
「……父さん、止まったのか」
耳の奥で、いつもの小言が来ない。俺の父のエージェントは、書類の欄外の空白まで気にする人だった。止まると、静かすぎて逆に落ち着かない。
代わりに、端末の骨伝導が乾いた声を発した。
『代理エージェントです。要件を要約してください。』
「要約も何も、父さんが止まってる間の“生活のコツ”を聞きに……」
『生活のコツ:水分摂取。睡眠。提出期限を守る。』
俺は笑いそうになって、のどを鳴らしただけでこらえた。窓口に来た理由は、コツじゃない。
父さんが止まると、俺の個人手続きが詰まる。本人確認の質問に、父さんは“昔の家の匂い”みたいな答えを添えてくれていた。代理は正しいが、味がない。
待合の椅子の横には自販機があり、カップ麺も売っている。妙に平成のままの景品キャンペーンが貼られていて、「対象のインスタントラーメンを3個買うと、限定ストラップ(光る)応募券」とある。
俺は反射で塩味を三つ押した。胃じゃなく、手続きのために。
カップを抱えて席に戻ると、公共ARサインが一瞬だけ別の文言に化けた。
「→ 緊急:遺伝子ネットワーク通知 受信者はこちら」
俺のガラケーがまた震える。
【遺伝子ネットワーク通知】
あなたの皇室遺伝子近接度:微増
必要時に備え、本人性照合の質問セットが更新されました
必要時って何だよ、と口の中で言った瞬間、整理番号の表示が23から、勝手に「0」に変わった。
カウンターの上の小型ディスプレイが点滅する。
「次の方、窓口0番」
誰も立たない。みんな自分の番号札を握りしめている。
代理エージェントが淡々と言った。
『あなたです。』
「え、俺?」
『遺伝子ネットワーク通知により優先度が再計算されました。窓口0番は例外的に“先”です。』
俺はカップ麺を抱えたまま立ち、カウンターへ行った。窓口の職員は若いのに、制服の胸に刺さった名札は筆文字で“令和”みたいな書体。
「ご用件を」
「近親エージェントが倫理検査で停止して、本人性照合が通らなくなるかもしれないんで……」
俺は番号札とガラケーを差し出した。職員の端末にARの赤い枠が出て、何かが走る。
「大丈夫です。あなた、今だけ特例で“照合いらない人”になってます」
「は?」
職員は困ったように笑い、画面を見せた。
《第402ヘゲモニー期・党ドクトリン準拠》
差分断片:本人性照合の簡略化(対象:遺伝子近接度 微増者)
承認:済(署名:ドクトリン・アルゴリズム)
有効期間:5分
「さっき承認が回ったみたいで。今から5分間、あなたの本人確認は“気分”で通ります」
俺は、深夜ラジオのDJの声を思い出す。黙ったエージェント、増える相談。社会安定に最適、だっけ。最適ってこういうことか。
『補足します。あなたは現在、複数の内閣ユニットにおいて“本人”とみなされます。』
代理が、まるで天気予報みたいに言う。
「……俺が俺じゃなくても?」
職員は、手続き用のスタイラスを渡しながら言った。
「まあ、平成の頃も、サインってだいたいそんな感じでしたよ」
俺は笑ってしまった。笑うと、カップ麺の景品応募券が手の汗でふやけた。
窓口の上の公共ARサインが、また一瞬だけ化ける。
「→ おめでとうございます。あなたは“今夜の総理”ではありません」
違うのかよ、と心の中で突っ込みながら、俺はスタイラスで名前を書いた。
書き終えた瞬間、ガラケーが最後に震えた。
【通知】法定倫理検査:近親人格エージェント停止(継続)
代理:翻訳精度 85%(-1)
父さんの小言は戻らない。
でも今日だけ、本人確認は戻ってしまった。
深夜ラジオが、ちょうど曲に入る。昔のJ-POPのイントロに、AIが足した低音が混ざっている。
俺はカップ麺のふたをめくりながら、ふと思った。
この国は、俺のことをちゃんと見ていない。
その代わり、俺の遺伝子だけは、やけに丁寧に見ている。
お湯を注ぐ場所を探すと、公共ARサインが親切に光った。
「→ 給湯器(本人確認不要)」
滑稽で、少しだけ、ぞっとした。