受信トレイの底で鳴る

──平成0x29A年 日時不明

昼休みに屋上へ出ると、風がぬるかった。二月なのに、と思ったが、空調制御のバグだろう。この建物はいつもどこか壊れている。

腰を下ろしてガラケーを開く。待受画面のちびまる子ちゃんが手を振る。サブフォルダの「着信メール」を開くと、件名のない受信が三十二通。すべて内閣ユニットからの政策変更リクエスト転送だった。

俺の仕事は、この転送されてきた差分断片を暗号解読にかけて、ドクトリン適合のラベルを貼ることだ。暗号解読屋。もっとも、今どき「解読」というほど暗号は堅くない。半分以上は手順さえ踏めばパターンマッチで通る。

「景介、昼ご飯は」

ガラケーのスピーカーから声がした。親父だ。三年前に胃癌で死んだ親父の人格が、この折りたたみ端末の中に住んでいる。生前は公団住宅の管理人をしていた。几帳面で、やたらと飯の心配をする。

「おにぎり食った」

「二個?」

「一個」

「足りんだろう」

足りている。そもそも、足りるとか足りないとかいう次元の話ではない。俺たちは別に食わなくても死なない仕組みの中にいるはずだ。でも親父にそれを言っても仕方がない。親父は管理人だったころの癖で、住人の健康を気にする。死んでもそれは変わらない。

ガラケーを閉じて、ノートPCを開いた。ThinkPadの天板に貼ったたまごっちのシールが剥がれかけている。画面にはブラウザが立ち上がっていて、ストリーミングで小室哲哉のリミックスが流れていた。イヤホンを片耳だけ差す。

受信トレイを開く。三十二通のうち、一通だけ暗号署名の形式がおかしかった。

ドクトリン署名のハッシュ値が、標準のSHA系ではなくて、見たことのない構造をしている。俺はパターンマッチを三回かけ直したが、どれも「適合率:判定不能」と返ってきた。

「親父、ちょっと見てくれ」

ガラケーを開いてスピーカーに向ける。親父はもちろん暗号の専門家ではないが、長年の管理人生活で培った「何かがおかしい」を嗅ぎ分ける鼻がある。画面をガラケーのカメラで撮って送信した。

沈黙。数秒後、親父が言った。

「これ、差出人が書いてないな」

言われて気づいた。政策変更リクエストには必ず、どの内閣ユニットが発行したかのIDがつく。この一通にはそれがなかった。差分断片だけが裸で届いている。

中身を読んだ。

「党ドクトリン・アルゴリズムの全面停止」。

たった一行。差分としては究極的に単純な、制度の根幹を消す一文だった。

俺は屋上の風に吹かれたまま、その一行を見つめた。承認すれば通るのか? 通らないだろう。署名が不正だ。でも、署名が不正であることを判定するアルゴリズムそのものが、この一行の対象なのだとしたら?

小室哲哉のリミックスがサビに入った。TKの声が「WOW WOW WOW」と繰り返す。

「景介」

親父の声。

「どうした」

「ラベル、何を貼るんだ」

俺はノートPCのカーソルを動かした。「適合」「不適合」「判定不能」。三つのボタンが並んでいる。

どれを押しても、たぶん何も変わらない。

でも、どれかを押さなければ昼休みが終わらない。

俺は「判定不能」を押した。三十二通目をアーカイブに送って、ノートPCを閉じた。たまごっちのシールがぺろりと剥がれて、屋上の風に飛んでいった。

「おにぎり、もう一個買えよ」と親父が言った。

「わかったよ」と俺は言って、階段を降りた。自販機の横を通りすぎるとき、液晶パネルに「あなたは第0x7A3F1内閣ユニットの内閣総理大臣に選出されました」という通知が一瞬映って、五秒後に消えた。

俺はそれを見なかったことにした。おにぎりのほうが先だ。