プリンターが吐く春巻きと、来訪者の着信音

──平成0x29A年03月17日 18:00

 受付カウンターの向こうで、合成食品プリンターがまた詰まった。

 ノズルの先から半透明の春巻きの皮がだらりと垂れている。中身のエビチリペーストは途中で止まっていて、断面がぬらりと光っていた。

「また詰まってる。叔母さん、マニュアルどこだっけ」

 右耳の奥で、叔母の声が応じる。

『ノズル清掃は左の引き出し。でもまず電源切りなさい、美咲。前も言ったでしょ』

 叔母——白石 文(あや)。享年四十五。くも膜下出血。もう六年もあたしのエージェントをやっている。生前より口うるさくなったのは、死後学習のせいなのか、それとも元々そうだったのか。

 あたしは第22観光ブロックの「おもてなしステーション」に勤めている。観光案内と来訪者受付を兼ねた小さな窓口で、駅を出てすぐの、かつてインフォメーションセンターと呼ばれていた場所だ。ガラス張りのカウンターには「i」のマークが貼ってある。何の略かは誰も知らない。

 プリンターの電源を落とし、ノズルを外していると、自動ドアが開いた。

 五十代くらいの男性。第8居住ブロックの来訪証がホログラムで胸元に浮かんでいる。その下に、ナノ医療パッチが三枚、首筋に並んで貼られていた。血圧か、それとも神経系か。パッチの縁が少しめくれている。

「すみません、こちらで来訪手続きの——」

 言いかけたとき、男性のガラケーが鳴った。

 着メロ。聞いたことがある旋律だ。たしか『世界に一つだけの花』の十六和音。カウンターに置かれた折りたたみ式の端末が、プラスチックの天板にぶつかって小さく跳ねた。

「あっ、失礼」男性は慌てて端末を開き、通話を切った。「息子が心配性で」

「お気になさらず。来訪手続きですね。端末のiモードサイトからも申請できますが、窓口のほうが早いですよ」

 あたしはカウンター端末を操作し、来訪者認証の画面を呼び出す。男性のブロック間移動許可証を読み取り、暗号署名を照合——したところで、画面が赤く点滅した。

『署名の暗号キーチェーンが合わないわね』叔母が呟く。『第8ブロックは先週、ドクトリン署名のローテーションがあったはず。こっちの検証鍵が古いのよ』

 あたしは端末の下に手を伸ばし、検証鍵の更新履歴を確認した。最終更新は十一日前。第8ブロック側は五日前にローテーション済み。鍵が一世代ずれている。

「少しお待ちください。認証の鍵が——」

「ああ、前もこれ言われました。向こうのブロックでも」

 男性は慣れた顔で頷いた。パッチの端を無意識に指で押さえている。

 手動で鍵の差分を取り寄せるには、内閣ユニットへの照会リクエストが要る。あたしはフォームを開いた。

『あのね美咲、照会なんか待ってたら三十分かかるわよ。公開鍵のハッシュ、もう半分読めるでしょ。検証だけなら手計算で——』

「叔母さん、それグレーだから」

 とは言ったものの、解読が半ば公然なのは誰でも知っている。窓口の研修でも「緊急時の手動照合手順」として暗に教わった。

 男性が小さく咳をした。パッチの一枚が完全にめくれかけていて、下の皮膚が薄く赤い。

 あたしは手動照合のコマンドを打った。

 十五秒。署名が通った。画面が緑に変わる。

「手続き完了です。ようこそ第22ブロックへ」

 男性はほっとした顔で折りたたみ端末をポケットにしまい、それから思い出したように言った。

「あの、ここ——食べるところありますか。息子と待ち合わせなんですが」

 あたしは振り返り、まだ半端な春巻きをぶら下げたプリンターを見た。

「……すぐ直りますので。お待ちいただければ、春巻き、出せます」

 男性は少し笑った。あたしも少し笑った。

 叔母が耳の奥で『ノズル。先に拭きなさい』と言った。

 プリンターの電源を入れ直す。ノズルの先から、今度はちゃんとペーストが出た。薄い皮が巻かれていく。小さな湯気が立つ。

 男性はカウンターの前のベンチに腰を下ろし、ガラケーを開いて息子に連絡を打ち始めた。十六和音の待受画面が、ガラスごしにぼんやり光っている。

 春の夕方だった。