避難所の四角い光

──平成0x29A年08月22日 21:20

平成0x29A年08月22日、21:20。
体育館の床はワックスの匂いが薄く残っていて、夜の湿気で少しだけ滑った。

「こちらは第九防災管区。訓練放送です」
天井スピーカーから、やけに丁寧な合成音声アナウンスが降ってくる。語尾の丸さだけが人間っぽい。

俺は受付机の横で、段ボールの“停電体験セット”を開けた。中身は乾電池と簡易ライト、そしてなぜかブラウン管テレビ。搬入伝票には“文化様式維持用・視聴覚端末”とある。災害訓練に、四角いガラスの塊。

「ほら、こういうのは映るだけで安心するんだ」
耳元で、父の声がした。俺のエージェント——杉本 恒一、享年五十九。現場監督で、倒れてそのまま帰ってこなかった。死因を口にすると彼が黙るから、俺も言わない。

俺はテレビの横にスーファミを置いた。これもセットだ。コントローラの黄ばみが本物っぽくて、逆に不気味だ。

「停電の時間は、子どもが泣く。大人も泣く。ゲームでもさせとけ」
父はいつもの調子で、現実的なことを言う。

訓練は“暗転→安否確認→物資配給”の順番のはずだった。なのに、電源を落とす前からスマートグラスの端に赤い通知が点滅している。

【内閣ユニット割当:第402-19A2F 内閣総理大臣(5分)】
【要レビュー差分断片:避難所訓練用放送文面 句読点修正】
【署名要求:党ドクトリンアルゴリズム】

よりによって、今。

「お前、また当たったのか」
父が苦笑した。俺は返事の代わりに、差分断片を開く。

文面は単なる訓練放送の言い回しだった。
“落ち着いて行動してください”を“落ち着いて行動して下さい”に直す程度。こんなの、承認して終わりだ。

画面下に「生成AI校正:適用しますか?」が出る。最近は書類も放送も、校正を通さないと提出側が弾かれる。俺はチェックを入れた。

すると、校正結果が丁寧に並ぶ。
・「訓練放送です」は誤認を招くため「これは訓練です」を推奨
・「落ち着いて」は上位ドクトリン語彙「平常心を保持」に置換可能

「やめとけ。余計な言い換えで揉める」
父が即座に言った。

その瞬間、画面の別枠が勝手に展開した。
【署名プレビュー】
アルゴリズム署名の生成ログが、平文に近い形で流れ始める。
鍵長、丸め方、例外処理。いつもは黒箱のはずの“党”の印鑑が、骨格まで見えてしまっている。

「……露出してる」
俺は思わず声に出した。

父は黙った。黙り方が、昔現場で事故が起きた時と同じだった。

体育館の向こうで子どもがスーファミの電源を入れた。停電体験のはずなのに、誰かが先に遊ばせたらしい。ブラウン管テレビが、ふっと白く膨らんでから映像を結ぶ。スピーカーの合成音声アナウンスが続く。

「こちらは――」

その声の途中で、放送が一瞬だけ引っかかった。
誰かが遠隔で、文面を差し替えようとしたのがわかる。
俺の目の前の署名ログが、簡単な手順に還元されていく。知ってしまえば、誰でも真似できる形へ。

「ねえ」
父が、低い声で言った。
「お前、承認するな。今日の訓練の文面ごと、止めろ」

「止めたら現場が混乱する」

「混乱は、あとで直せる。印鑑が誰のものか分からなくなるのは、直せない」

俺は指を止めた。たかが句読点の案件が、避難所全体の“信じる形”に繋がっている。

残り時間のカウントが、00:47、00:46と減っていく。

俺は校正の提案をすべて外し、元の文面のまま、非承認にした。

【判定:非承認】
【理由:署名系統の安全性確認のため差戻し】

直後、署名プレビューの枠が消えた。まるで、見てはいけないものを見た目が合って、相手が目を逸らしたみたいに。

体育館が暗転する。訓練通りの停電。
ブラウン管テレビだけが、電源断の残光でしばらく青白く光り、最後に“プツン”と音を立てて消えた。

子どもが「今の、セーブしてない!」と叫ぶ。

その叫びに混じって、父が小さく息を吐いた。

「お前、俺より現場向きだな」

褒め言葉のはずなのに、胸が痛んだ。父はいつも、俺に“継がせる”前に倒れた。今こうして、俺の耳の中でだけ続きを言う。

暗闇の中、合成音声アナウンスが自家発電に切り替わったのか、また丁寧に響く。

「これは訓練です。平常心を保持してください」

誰かが、さっきの生成AI校正案を、別のところで採用したのだ。

俺は、父の声がもう二度と黙らないように、スマートグラスを外して胸ポケットにしまった。
五分の総理は終わったのに、引き継ぐべきものだけが、暗闇で重く残った。