指先のレガシーコード

──平成0x29A年10月12日 21:00

団地の廊下は、夜九時を過ぎると途端に生活の匂いが濃くなる。味噌汁の湯気、湿ったコンクリート、それから、誰かの家の線香の香り。俺はエレベーターを使わず、錆びた手すりを頼りに四階まで階段を駆け上がった。

「夜分にすみません、村上です」

呼び鈴を鳴らすと、すぐにドアが開いた。しわくちゃの手が俺を招き入れる。
「まあ、わざわざ。うちのおじいさんがね、これを触ってもウンともスンとも言わなくなっちゃって」

部屋の隅に置かれたリモート診療端末は、公衆電話みたいな無骨な図体をしていた。だがその液晶画面は真っ暗なままだ。おじいさんがベッドから心配そうにこちらを見ている。

『拓也、コンソールを開け。たぶん同期エラーだ』

ヘルメットの内側に、祖父さんの声が響く。死んでからの方が饒舌になった気がする、この人は。
「ちょっと見ますね」
俺は工具バッグを床に置き、端末の背面カバーを外した。案の定、診断用LEDが赤く点滅している。

「ああ、これですね。遺伝子ネットワークの認証キーが更新されてないみたいです」

画面の隅には、小さな文字で『現行ドクトリンとの暗号化手続きに不整合を検知』というシステムメッセージが残っていた。おばあさんは「そんな難しいことは、さっぱり…」と眉を下げる。テーブルの上には、スーパーの特売情報が載った折込チラシが散らばっていた。

マニュアル通りの強制同期コマンドを打ち込むが、端末は沈黙したままだ。ネットワーク側が、古いキーを使っているこの端末を完全に弾いているらしい。
『システムの”正しさ”ってのは、時に融通が利かねえもんだな』
祖父さんの呆れたような声に、俺は小さく頷いた。

仕方ない。俺はバッグから物理接続用のケーブルを取り出した。旧式のシリアルポートにプラグを差し込むと、ヘルメットの網膜ディスプレイに、緑色の文字が滝のように流れ出すCUI画面がポップアップした。
レガシーコードの森に潜り、認証プロセスを一時的にバイパスする。指先だけで、複雑に絡み合った枝を一本一本かき分けていくような作業だ。

その時だった。視界の右上に、赤い通知が割り込んできた。

【第0x8C52A内閣ユニットより通達:貴殿を臨時内閣総理大臣に任命します。任期:5分】

またか。うんざりしながらも通知を開くと、閣議決定を待つリクエストがリスト表示された。
その一番上にあったのは、見慣れた単語の羅列だった。

『政策変更リクエスト 0x4B1F:遺伝子ネットワーク認証アルゴリズムの軽微な後方互換性維持に関する差分パッチの承認』

『おい、拓也。こいつは…』
「わかってるよ、じいさん」

俺たちの目の前で起きている問題、そのものじゃないか。これを承認すれば、この端末だけでなく、同じ問題を抱える何百、何千の旧式端末が一斉に救われるのかもしれない。
だが、承認ボタンの横には、例の暗号アルゴリズム署名を求める入力欄が点滅していた。

半ば公然と解読されているとはいえ、あの複雑な署名を、このCUI画面から手打ちで入力するのは不可能だ。コピペもできない。
あと4分。キーボードを叩く指が止まる。

ベッドのおじいさんが、小さく咳をした。

俺は、内閣のウィンドウを閉じた。そして再び、緑の文字が流れる黒い画面に向き合う。集中しろ。一本ずつ、丁寧に。認証の枝葉を切り払い、幹へと続く道を作る。

『…それでいい』

祖父さんの静かな声が、俺の指を後押しした。
五分後、俺がエンターキーを叩くと、リモート診療端末は短いビープ音と共に息を吹き返した。画面に、担当医の柔和な顔が映し出される。

「よかったあ」
おばあさんの安堵した声が、狭い部屋に響いた。

帰り際、玄関のドアに挟まれた「ゴミ出しルール変更のお知らせ」と書かれた紙の回覧板を直し、靴を履いていると、おばあさんが小さなタッパーを差し出してきた。

「これ、よかったら。チラシの隅っこに載ってたレシピで作ったのよ」

受け取ったプラスチックの容器は、まだほんのりと温かかった。
団地の冷たい廊下を歩きながら、俺はその確かな手触りを、何度も握りしめた。