月下の樹々、欠けた双子
──平成0x29A年10月10日 22:40
平成0x29A年10月10日、22時40分。
俺は中央公園の奥、ほとんど人通りのない場所でデジタルカメラを構えていた。被写体は、樹齢数百年の大楠。夜の闇にそびえ立つその姿は、何度シャッターを切っても飽きない。第13ブロックの植物データ管理士である俺にとって、この樹はただのデータ以上の意味を持っていた。
「浩介、もう少し右に振って。その方が枝のラインが綺麗に見えるわ」
耳元で、美咲の声が囁いた。俺のエージェント、妻の美咲だ。享年35、交通事故で逝ってしまったが、こうしていつも俺のそばにいる。生前も写真好きで、俺の趣味をいつも応援してくれていた。
俺は言われた通りにカメラを微調整し、モニターに表示された構図を確認する。完璧だ。古いフィルムカメラを模したデジカメのシャッターを切った。カシャリ、と乾いた音が夜の公園に響く。美咲が「うん、いい感じ」と満足げに笑った。
ポケットから、くたびれた紙の地図を取り出した。公園全体の案内図だが、俺が個人的に書き込んだ撮影ポイントや、季節ごとの植物の様子がびっしりと記されている。「懐かしいわね、これ。まだ使ってるんだ」と美咲が微笑む。それは俺が学生時代から使っているもので、デジタルデータに変換してもいいのに、なんとなく捨てられずにいた。
その時、スマートフォンのディスプレイが突如、砂嵐のように乱れた。美咲の声が途切れ途切れになる。「あなた……何、かあった……の?」
通知領域には、『個人デジタルツイン同期エラー。データ整合性:低』というメッセージが点滅している。俺の視界に広がるAR表示も同期し、公園の街灯が二重に見えたり、樹々のシルエットが奇妙に伸び縮みしたりする。まるで、古いテレビのチューニングが狂ったような、懐かしい違和感。平成エミュの粗悪なコピーを見ている気分だ。
エージェントアプリの画面は、まるでiモードサイトのようにテキストと画像が崩れていく。量子署名のエラーコードが羅列され、美咲の顔がモザイク状に歪む。「ごめんなさい……浩介。私、ちょっと……」彼女の声が途切れた。
俺は、美咲のデータが欠けているような感覚に襲われた。まるで、彼女の一部がこのデジタル空間から消え去ろうとしているかのように。心臓がわずかに波打つのを感じたが、すぐに落ち着きを取り戻した。こんなことは、この「平成0x29A年」では、たまに起こる。
中央政府が解体され、数十万の内閣ユニットが並行処理で統治を回しているこの時代、党ドクトリンのアルゴリズムが半ば公然と解読されているような末期では、システムも不安定になるのが常だ。俺たちの生活は、常に曖昧な境界線の上にある。
「大丈夫よ、きっとすぐ直るわ」美咲が、震える声で言った。その声は、データが欠けているせいか、まるで過去の録音のように感情が希薄に聞こえる。俺はカメラを下ろした。もう一枚、シャッターを切ったところで、何かが変わるわけではない。
「ああ、大丈夫だよ。いつものことだ」俺は、自分に言い聞かせるように、そして美咲を安心させるように言った。彼女の顔はまだ歪んでいたが、その言葉に少しだけ安心したように見えた。
俺は、乱れたディスプレイを見つめながら、公園のベンチに座る。夜風が少し冷たい。夜空にはぼんやりと月が浮かび、その光が、ARのノイズに重なって点滅する古い街灯をぼんやりと照らしていた。
この不安定な世界の中で、俺たちはただ、淡々と生きていくしかない。美咲も俺も、そしてこの大楠も、この世界の歪みの一部なのだ。
俺はそっと、美咲のデータが欠けていく気配を受け入れた。夜は、まだ長い。